[#表紙(表紙.jpg)] 柴田曜子 尾崎豊 夢のかたち 目 次  第一章 期待は裏切られやすい    死の予感    電話線を伝わるそれぞれの想い    追悼式前夜    胸に刻む自分だけの尾崎像  第二章 早すぎる伝説    母の想い    僕のすべてを伝えたくて    仕組まれた自由の中で    母に勧められたオーディション    トラブル・メーカー    何もかもが違っていた──活動停止  第三章 危険な風景との出会い    結局はビジネスさ    白い粉の誘惑    限界と終焉の予感    誤解を恐れたかよわき小羊    哀しみ色の危険な人波  第四章 白い運命    全身を覆う疲労の表情    歌と現実の区別さえもてず    「ハブ・ア・グッド・デイ」    白い粉と化した運命のカード  第五章 いくつ目かの神話    死ぬために生きるような暮らし    アイツといる限り永遠に青春が続く    二度目の裏切り    オン・エアされないリクエスト  第六章 最後方からの風景    世間知らずのオレだから    たった一日だけの復活ライブ    「ひとつの過程」か「これがすべて」か    ドラッグで確かめる愛    ビジネスとしての歌手の悲劇  第七章 予言された死    戦慄のフィルムコンサート    虚像との約束    一枚単位で売れるチケットの意味    ドラッグ、女、そして酒  第八章 彼が彼であるために    待ち続ける誰かのために    鬱の穴    個人事務所の設立  第九章 原子の輝き    孤独な洞窟    約束の日    五十六本のライブ──全国ツアー    母の死、そして……  第十章 永遠の1/2    蒼ざめ震えながら立ちつくす人々    いつかふり返ることもできずに    風になった少年    誰のせいでもなく  あとがき  参考図書一覧  文庫版あとがきにかえて    オザキ・イン・NY    署名運動の経緯 [#改ページ]   第一章 期待は裏切られやすい 「お、尾崎が、尾崎が……」  その第一報は「彼」のファンである、静岡県に住む十七歳の少年からの電話によるものだった。 「変な冗談、よしなさいよ」  私は、冷静な声を出したつもりでいた。いつもの調子で少年が冗談を言っているものだと思ったからだ。いや、冗談であってほしいという願望だったのかもしれない。無理やり出した声は、私の意に反して小刻みに震えているように感じた。耳元が、熱くなる。 「今ね、友達とテレビ見ながら、尾崎のファンクラブの会報を読んでたんです。そしたら、テレビのニュースが流れて、尾崎が死んだって……尾崎がね、死んだっていうんですよ……」 「本当に? 本当にテレビのニュースでそんなこと、言ってたの? 本当に『尾崎豊』って言ってた?」 「言ってた。ロック歌手の尾崎豊って言ってた……」  少年のその言葉を聞き、私は頭の中の記憶が、すべて真っ白になってしまうのではないかと思うほどの眩暈《めまい》に襲われた。 「テレビニュースって、間違ったりしないんですか。かならず本当のことしか言わないんですか」  私には答えることができなかった。 ■死の予感  いつも何か、ふとした表情の中に孤独ばかりをみなぎらせている「尾崎豊」の姿に、私は心のどこかで「もしかしたら……」と彼の死を、ずいぶん前から予感していたのかもしれない。しかし、やはり彼がこの世から消え去ってしまうという事実は、まったくこの世になじまぬ事実に思えた。いつかは必ずそんな日がやってくることは誰にも否定できないことなのに、まだそんなことがあっては、いけないような気がした。 「もう、何を支えにしていったらいいか、わからない……」  少年の震えるような声が一瞬、私の心に不可解な圧力をかける。  あまりにも突然のことで、眩暈がやまない。 「尾崎が、オレが唯一信じていた尾崎がいなくなるということは、オレの……すべてが失くなるということで……どうしよう。ねえ、どうしよう。いくら頑張っても、もう尾崎はいないんでしょ……オレの夢が、壊れていっちゃうよ……」 「落ち着きましょうよ。とにかくその情報、確認してみるから」  私はテレビニュースを疑っている自分に驚いた。そうして「落ち着きましょうよ」と少年に言いながら、実は自分の方こそ気が動転していることに、ふと気がついた。  放心状態で、思考が混乱した少年との電話を切った私は急遽、尾崎の事務所に出入りしていたY氏に電話を入れた。 「急性アルコール中毒らしいですよ。ええ、僕も信じられなくて、さっきお父さんに確認の電話を入れたんです。今日のお昼過ぎだったそうです。いえ、まだ詳しい死因はわかってないらしいですがね。ええ、通夜や葬儀とかは、まだ決まってないと思いますよ」  問い合わせの電話がY氏のところにも殺到したらしく、いま情報を得たばかりの私より、いくぶん落ち着いている冷静な声だった。そうして私は、ひとりのライターとして追い続けた「尾崎豊」という偉大なアーチストが、実にあっけなくこの世からいなくなったということを徐々に理解したのだった。 「だけどねぇ、急性アルコール中毒だなんて何か変ですね。だって、ボトル三本は平気で空けるヤツがですよ……」  Y氏は尾崎の死因について、腑に落ちない様子でそう言った。Y氏は、最後になった昨年(一九九一年)の全国五十六本のツアーの一部を、尾崎と一番近い距離で支えた人である。 「事務所はパニックだろうし、いまは何が何だかサッパリわからない状態でしょう。僕も事務所を離れてからは、まったく事務所の状態がわからないですからね。しかし、だれが一体これからのことを取り仕切るのかなぁ」  尾崎の事務所を離れたとき、もう二度と尾崎に関することにはタッチしないだろう、と言っていたY氏ではあったが、結局はこういう形で、また「尾崎豊」と向き合うことになってしまったのである。そうしてY氏はY氏なりの「尾崎」に想いを馳せ、想いを寄せている。 「しかし、突然ですねぇ……」  Y氏は、電話の向こうで軽くため息をついた。 「とにかく事務所は連絡のつけようがないだろうから、どこからか情報が入ったら、また連絡しますよ」  Y氏との電話を終えた私は、尾崎豊が見せたいくつもの笑顔と作り笑い、そして怒りの表情を思い出していた。部屋の中はしんとしていて、凍りついた湖のようだった。  しばらくしてテレビをつけた。私は必死に「尾崎豊死亡」を伝えるニュースを探していた。ニュースはなかなか見つからなかった。 ■電話線を伝わるそれぞれの想い 「尾崎が死んだって知ってる?」  何も手につかない状態でいると、カメラマンの友人から電話が入った。 「いま、ラジオでそのこと知ってさぁー。いやぁー、本当かなぁ。ねえ、何で死んだの?」 「まだ、わからないみたいなの」  しばらく、沈黙が続いた。二人とも言葉にならない。いつか一緒に「尾崎の特集」を、どこかの雑誌でやれたらいいねえと話していた矢先だっただけに、お互いの衝撃は手に取るようにわかる。 「それじゃあ、また」とぎこちなく電話を切ると、間髪を入れずに別の電話が入った。 「ちょっと、聞いた?」  尾崎ファンの友人からだった。そしてそれだけ言ったら、あとの言葉が続かなかった。私が、「彼にはいろいろと教えられたね」と言うと、二十八歳の彼女は声を震わせて泣き出した。なぜか、私は泣けなかった。泣くという行為すら、忘れてしまっていた。 「アイツ、オレのところに会いに来たんだぜっ」  四年ほど前に尾崎のバックバンドの一員だったZ氏が、興奮したように電話をかけてきたのは午後十時を回っていた。 「今日ね、ツアーの移動で飛行機に乗ってたんだけど、ちょうど午前十一時過ぎ、夢をみたんだよ。名古屋駅の反対ホームからアイツがオレの名前を呼んでるの。『あっれー、尾崎じゃない。こっちに来いよ』って言うと、『いま行くよ』って言って、あっという間にこっちのホームに来て、『久しぶりだね』って抱きついてきて、すっごく嬉しそうに笑ったんだよ。だけどオレが、『尾崎、今度一緒にツアーやろうよ』って言ったところで夢がさめちまったんだ。ニュースを見て、びっくりしたよ。オレがその夢見てたときって、尾崎が意識不明で呼吸が停止してたんだって。アイツ、オレのところに会いに来たんだぜ……」  その日、電話は夜遅くまで鳴りやまなかった。電話線を通じて伝わる人々の尾崎豊に対する深い想いが、日本列島を大きく揺らしているような気がして私は怖かった。 「お通夜とか、お葬式とかいつやるのか、そういうの、教えてください」  そういう尾崎ファンからの電話のたびに、「まだ、わからないの。決まればたぶん、新聞やテレビで流れるんじゃないかしら」と答えるのが、私には精一杯だった。 ■追悼式前夜  一九九二年四月二十九日。尾崎が逝去して四日が経った。東京都文京区にある護国寺では、尾崎豊の通夜が近親者だけで営まれていた。その寺を取り囲むようにして、多くの若者が集まりはじめていた。その数は、午前零時を過ぎると二百名を超した。雨が降る底冷えの中、彼らは思い思いの形で尾崎豊に別れを告げようとしていた。  ただ一人、立ちつくす者。友人や恋人と肩を寄せ合いながらうなだれている者。ギター片手に尾崎の歌を歌う者。手に持った白い花束を、じっと眺めている者。それぞれが寺の周りに散在して夜明けを待っていた。翌日は、尾崎の追悼式が行われるのである。  東京都内から来た少年がジュースを買おうと、寺の門近くにある自動販売機に近寄ると、すでに全部売り切れている。驚いてあたりを見渡すと、空カンがたくさん捨てられていた。菓子の袋も落ちていた。道路脇にあるゴミ箱からは、ゴミがはみ出していた。 「なあ、みんな。こんな汚い場所に、尾崎を眠らせていいのか」  散らばっていた若者たちは、徐々に会話を交わし始めた。 「ホウキとチリトリ、借りてくるわ」  大阪から来た少女三人組が、近くの交番に駆け込んでいく。だれかが黒い大きなゴミ袋をコンビニエンスストアへ買いに走った。しばらくすると、あちらこちらでゴミ袋をさげた彼らが、空カンをはじめとするゴミを拾い集める姿が見られた。それらゴミ袋を一つにまとめ、新しいゴミ袋をゴミ箱の中にセットする。  彼らは雨の中で、黙々とゴミ拾いを続けていた。 「尾崎、ありがとうよ」  誰とはなしに、そんな声があちこちから漏れた。  あたりの掃除が一段落すると、誰かが言った。 「尾崎は、優しい人だった。オレたちをいつも励ましてくれた。そんな尾崎に感謝し、今度はオレたちが尾崎を励まし、見守る番だと思う。尾崎は寂しがりやだったのを皆、知ってるよね。皆がバラバラだと、尾崎が哀《かな》しがるかもしれない。尾崎が寂しい思いをしないように、皆で一つにならないか」  ギターを抱えた三人の少年を中心にし、二重にも三重にも輪ができた。知らない者同士が、一つの塊《かたまり》になった。だれかが、用意してきた尾崎の歌の歌詞のコピーを配る。 「まず、『卒業』から……」  大きな歌声が始まり、やがて雨がやんだ。夜空を見上げ、見知らぬ者同士が肩を寄せ合い、尾崎の歌を歌った。彼らの胸には、彼らが生まれ育った環境や、彼らが選んできた生き方の違いによって、それぞれが別々の意味を含ませた尾崎豊が存在している。だからお互い、尾崎豊について語り合うと意見が衝突したりする。同じ歌を聴いても、その歌詞の伝える意味を解釈するとき、ファンの間でさえ異なっていたりする。だからたった一つ。彼らは「尾崎豊」という名前によってのみ、一つの輪になることができるのだった。  その歌声は夜明け近くになり、警官が来て「塊になると邪魔になる。散らばりなさい」と言うまで続けられた。彼らは、警官の言うことに素直に従い、輪を崩した。  不思議なことに、雨がまた、さらさらと降りだした。彼らは、それぞれがビルの中で雨宿りしたり、歩道橋の上で道路を眺めたりして追悼式を待った。  そして夜が明け、さらにファンの数は増えていった。その様子にビジネスマンたちは立ち止まり、目を見張った。そして尾崎豊について、付け焼き刃の知識を叩き込んだテレビ局のレポーターや中継車が右往左往しながら、より多くの尾崎豊に関する情報をかき集めようとしていた。 ■胸に刻む自分だけの尾崎像  十一時間九分三十秒。これは四月二十六日から一週間、尾崎豊の逝去についてテレビのワイドショーなどで語られた延べ時間である。おかげで彼は、生前よりずっと有名になった。きっと彼のファンは驚いたに違いない。いままで「わかりあえない」と思っていた人たちが、自分たちに向かって一斉に敬礼したようなものだからだ。 「オレたちの信じたものは、間違っていなかった! 尾崎の偉大さを、だれもが認めてくれてるんだ!」  尾崎の存在が各方面でクローズアップされるに従い、そう思い込むファンが増えた。しかし多分、尾崎豊の死と、その後に起こった現象に関して本当に理解した人は少なかっただろう。なぜならマスコミが大騒ぎした理由は、尾崎豊が偉大なロック歌手だったと理解したからではなく、尾崎豊に群がるファンの多さと、それらが形成する自分たちとは明らかに異なる文化に対して驚いただけだからだ。そして数少ない映像や資料によって尾崎豊の足跡を表面的になぞったにすぎなかった。それは単に、尾崎豊を知らなかったということへの反動にすぎない。どの番組も、どの新聞もファンの一人一人が抱いている「尾崎豊」を、そして尾崎自身について、奥深くまで潜り込んで見つめようとしているようには見えなかった。  尾崎の「死」に対し、ファンは自分だけの尾崎を改めて胸に刻み直し、ファン以外の人たちは尾崎豊に関する説明を求めた。  また、音楽評論家や司会者、ゲストコメンテーターたちが、尾崎豊とそのファンの関係について、正確には知らないままテレビや新聞でコメントしていた。それに怒りをぶつけるファンや関係者は多かった。 「彼のファンは、何も若者だけじゃない」  そう怒って電話してくる六十歳の男性ファンもいれば、護国寺近くに住むのに追悼式へは足を運ばず、 「あの葬儀に参列した四万人だけが彼のファンと思われるのはイヤ。私は自分の部屋で尾崎の歌を一日中流して、私の心の中で彼を弔ってあげたの」  という十六歳の少女もいた。二十六歳の男性ファンは言う。 「人込みにもまれて尾崎に会いに行っても……。最後だから尾崎に会いたい気持ちもあったけど、静かに彼を天国まで見送ってあげたいから、僕は会社の窓から彼の眠る護国寺の方に向かって黙祷しました」  そんなふうに、それぞれが自分だけの尾崎を大切にしている。 「尾崎のこと、よく知らないくせにいい加減なこと、言ってほしくない」  生前、尾崎と一緒に飲んだことのある人や、仕事で関わった人たち。友達。家族。それぞれが尾崎に対して自分だけの「尾崎像」がある。そしてそれが一番正しいと思っている。だから「正しい尾崎像」というものが、尾崎豊に興味ある人間と同じ数だけ存在することになる。尾崎に興味ある人は、誰しも「尾崎豊」について語りたがる。しかしそれは、他人の「尾崎像」と必ずしも一致しない。彼らに共通するのは「尾崎豊」という名前だけである。それぞれが、異なった尾崎豊を愛しているからである。その自分だけの「尾崎豊像」を汚されたくないものは、ムキになって「自分の尾崎論」を主張する。  ある人にとって尾崎は礼儀正しい好青年であり、別の人にとってはどうしようもない人間に映る。あるファンにとっては命の恩人であり、あるファンにとってはただの歌のうまい歌手である。その感じ方は千差万別であり、決して一つの枠でくくることなどできないのである。  だから誰かが尾崎豊を語るとき、いつもそこに他人の認識している「尾崎豊」との矛盾が生じるのである。  尾崎はよく、「期待は裏切られやすいものだ」という言葉を口にしていた。そして私は彼の言葉どおり、彼に対する過度な期待を「彼の死」によって、いとも簡単に裏切られた形になった。彼に何かを裏切られたような気持ちにさせられたのは、これで四度目だ。そうして裏切られるたびに私は失望し、「尾崎なんて本当は嘘ばかりつくし、大嫌いだ」と思ったりもした。しかし、これから先、彼に期待を裏切られることは二度となくなってしまった。  なぜだろう。それは今になって、とても残念なことのように思われる。 [#改ページ]   第二章 早すぎる伝説  暑い日だった。まだ五月だというのに、すでに完熟した真夏のような太陽がキラキラとアスファルトに照りつけている。私は足元に光るそれらを眺めながら、新宿駅から西へ延びた私鉄、小田急線の代々木八幡駅で下車し、急な坂道を歩いていた。上がりきった右手に、目指す場所が見えるはずだ。目印の青い屋根の民家が視界をかすめると、緊張が身体を包んだ。  一九九一年五月十一日、午後三時。私は最大の猜疑心を抱えながら、四年ぶりに一人の青年と再会しようとしていた。  青年は気難しい。青年は礼儀正しい。青年は心優しい。青年は猜疑心が強い。青年は執着心が強い。青年は、よく笑う。  後から後から思い出される、以前見たいくつもの青年の姿を胸の中で反芻していると、私は自分の身体が緊張に押し潰されるような気分に襲われた。  マンションの階段を上ると、濃紺色のドアの上に、「アイソトープ」という文字が太陽の光に乱反射していた。私は、過度の緊張と期待、そうしてわずかな「裏切られる快感」を抱きながら、ベルを鳴らした。応答は、意外に早く返ってきた。女性の「どうぞ」という声がインターホンの雑音に混じって聞こえた。  重厚な扉を開くと、多くの靴が散乱し、上がり口には黒いスリッパが一組、置かれていた。 「打ち合わせが長引いているので、こちらでお待ちください」  通された部屋には、窓際に事務机が三つ並んでいて、左手の奥まったところにキッチンがかすかに見えた。私は真ん中の机に向かい合った椅子に勧められ、腰を下ろした。 「すみません。スタッフとの打ち合わせが、ちょっと……」  女性事務員の声に私は軽くうなずき、にじみでた額の汗をハンカチでぬぐった。緊張が、少しとけてきたような気がした。そうして私は、ガラス越しに見える緑の多い街並みに、ぼんやりと目をやった。 ■母の想い 「おまたせして、すみませんね」  やわらかい声で話しかけられ、声のした方を向くと、隣の席に尾崎の母親が座っていた。事務所を手伝っている母親は、帳簿をつけていたらしい。 「どうぞ、お気づかいなく」  そう言いながら、私は笑ってみせた。 「何時からの予定なんですか、打ち合わせは」  尾崎の母親は、帳簿をつける手を止めて、私の手元をのぞきこんできた。手元には、打ち合わせ用のノートと、今回の企画の趣旨を書いた紙があった。すでに打ち合わせ予定の時間を一時間も過ぎていたが、一向に先の打ち合わせは終わる気配すら見せない。私は無意識のうちに腕時計を何度も見ては、焦っていた。 「ええ、三時の予定なんですけど。でも、お気になさらずに、待たせていただきますから」  私は努めて冷静に、そう言った。 「そうですか、すみませんね」  尾崎の母親は、本当に申し訳なさそうな顔をして頭をさげた。うっすらと赤く染めている髪の毛が、額の生え際のあたりで軽くちぢれている。眉間に寄ったしわが、大きく盛り上がっているのが印象的だった。 「このあたりは都心に近いはずなのに、静かでいいですね」 「ええ、とっても静かですよ。空気もいいですし、またいつでも遊びに来てください」  仕事の打ち合わせのために来ていた私は、そのときの「遊びに来て」という母親の言葉に、小さな違和感を感じた。それは、子供のころに遊びに行った友達の家の母親から発せられるそれと、よく似た響きを持っていたからだろうか。 「ここの事務所は、全部黒と白で統一されていて素敵ですね。私も黒が好きだから、とても落ち着きます」 「これは豊の趣味なんですよ。朝霞のあの子の部屋も、全部黒で統一されているんです。黒は、豊の趣味なんですよ」  母親は、「豊」というところにわずかにアクセントをつける。なにか特別なものを呼んでいるように、その「豊」は、母親の口から流れる他の言葉とちがう特別な抑揚であった。  一瞬の間をおいて、母親は続けた。 「そうですか。あなたも黒が好きですか。じゃあ、豊の趣味がわかるんですね。それは、いいですね。  あの子は、少し難しい子でしてね。でも、私にはあの子のことがよくわかっているつもりでいたんですよ。それは、私なりに理解しているつもりでいるし、大切にしてきたつもりなんですよ。でも、あの子には伝わらなかったところもあったみたいで……。だけど、あなたも豊と同じで、何かを表現する人なんだから、そんな豊の気持ちはわかるはずですよね。ええ、そうですよね。あの子のそういう微妙なところ、書いてあげてくださいね」  母親は、また深く頭をさげた。そうして手土産に持ってきた私が書いた本を眺め、 「豊が読み終わったら、豊から貸してもらって読ませていただきますね。私も本を読むのは大好きなんですよ。早く読みたいわ」  そう言って、初めてかすかに微笑んだ。 ■僕のすべてを伝えたくて 「おまたせしました」  やっとスタッフとの打ち合わせを終えた尾崎豊に呼ばれ、私は社長室へと入っていった。彼は三時間通しの打ち合わせに疲れも見せず、休憩さえ入れずに私を迎え入れた。 「どうも……」  彼は、モスグリーン色のスーツを着ていた。左腕にはコルムの時計が光っていた。  私はその日、『文藝春秋』誌に、六年ぶりにファンとの「ある約束」を果たすために復活する尾崎豊の記事を載せる目的で、彼に会いに行ったのだ。 「ねぇねぇ、『クレア』、見た?」  彼は、置かれたソファーに腰を下ろすのももどかしそうに、私にたずねた。そういえば数日前、女性誌『クレア』のどこかで「尾崎豊」という名前を見たような気がした。しかし、その内容に関してはまったく知らなかった。私が首をふると、尾崎は少し不満そうな顔で言った。 「なんだ、見てないの。あれね、ひどいよ。僕のことが書いてあったんだけど、あまりにもひどい内容なんだよ」 「どんなふうに書いてあったの?」  その日の朝、彼はたまたま入った本屋で『クレア』に書かれている自分の名前を見つけ、自分に関する記事を読んだという。そうしてその箇所を、しっかり暗記して帰ってきたのだった。 「あのね、『偶像化されるのを嫌いながらも、しっかり客に生き方を説くサルのセンズリ』なんて書いてあるの。『サルのセンズリ』だよ。これって、あまりにも下品だよね」 「ひどい……」  私は思わず絶句した。 「一番ひどいと思ったのは、僕のファンについて書かれているところなんだ。『反学校のウリネタを引き算すれば愛・夢・自由を連呼するだけの凡庸だが、弱者相手の限定販売なのでそれでもいい』とか、『大東亜帝国あたりの入試勉強に受験地獄を感じてしまう三流の嘆きびと』なんて書かれてたの。これって失礼だよ。だいたい『弱者相手の限定販売』とか『大東亜帝国』とか『三流』って、何だよ。その言葉のもつ定義を教えてほしいよ」  尾崎は口をとがらせ、息つくひまもなく話し続けた。いつもは物静かに、とつとつとした口調で話すのに、その日はやけに興奮していた。  彼は自己に対し、また自己の生み出すさまざまな表現方法とその結果に対し、異常なまでの執着を見せるところがある。その執着が、こうした形となって出たのかもしれない。 「まだいろいろ書いてあったけど、あんまりひどすぎるから、どこの出版社かと思って裏を見たらね、『文藝春秋』って書いてあるじゃない。たしか、今日の打ち合わせは『文藝春秋』って雑誌だったなと思ってビックリしたよ。僕の批判をしているところが、どうして僕の復活の記事を書くの?」  まさか、同じ出版社内で「尾崎豊」を取りあげている雑誌があり、それが批判的な内容だったとはまったく知らなかった私は、一瞬たじろいだ。私は文藝春秋の人間ではないが、そこの雑誌に原稿を書いているライターである。複雑な心境だった。 「『クレア』という女性誌は、たしかに文藝春秋で作っている雑誌のうちの一つなんだけど、でも私が今回、尾崎君の復活の記事を書くのは、月刊の『文藝春秋』といって、『クレア』とは別の編集部が作っている雑誌なんだけど……」  そう言いながら、私は黒い大きな仕事用の鞄から、見本の『文藝春秋』を出して彼に渡した。彼はそれには目もくれず、分厚いその雑誌を脇へおしやって、なおも『クレア』の話を続けた。 「だけど、この『クレア』って雑誌の編集者は、このOというライターの書いた記事を認めているんでしょ。だからこそ、こういう記事を載せているわけでしょ。ってことは、僕のことも、このOって人が書いたように見ているんじゃないの?」  そう言われれば、返す言葉もなかった。私はその「尾崎批判」の原稿を書いた人間でもないし、その雑誌の編集をやった人間でもないから、彼らがどうしてそんな記事を載せたのかわからない。しかし私は、たしかに文藝春秋という出版社と仕事をしている人間に違いない。  私が黙っていると、ふたたび彼は続けた。 「だいたい、このOって人、どういう人なの? まったく、なぐってやりたいよ」  彼は、右腕をブンと一回ふりまわし、なぐる真似をしながらそう言った。 「私は編集部の人間ではなく、フリーでライターやってる人間だから、そのOという人とは会ったことないし、知らないんだけど……」 「ふーん。だけど、この記事、ウソばっかり。ひどいよねー。だけど同じ文藝春秋でしょ。まさかキミが情報提供してるわけじゃあないよね」 「まさか」  私は、少々ムッとして答えた。 「そんなことするわけないじゃない。だいたい私、そのOって人のこと、知らないもの。話を聞いてるだけで腹が立ってくるわ」  そう言うと、彼はその日初めてほんのりと笑った。そうして「まぁまぁまぁ」と言いながらソファーに座りなおした。 「まあね、このOという人が、人に対する批判を書くというスタンスで仕事をしようと決めて、それを自分で納得した上で実行しているんなら、それに対して僕はまちがっているとはいわないよ。それは、その人の生き方だから。だけどね、自分の書いた内容には責任もってほしいよね。言葉の定義とか、その内容の信憑性とかね。  それに、そのOという人、『歌うたいは、責任をもって自分の芸についての物言いをすべきだ』って書いてたけど、じゃあ、このOという人にとっての責任って何だろう。たとえば、僕はこのOという人から取材を受けたわけじゃない。それなのに僕のことを書いてる。取材もしないで勝手に僕のことを書くなんて、それでこの人は、物書きとしてどこに責任をもって書いてるといえるんだろう。それこそ、無責任な話だよね」  彼の蒼白い顔が、少し赤みをおびてきた。たしかに、彼の言っていることはもっともなことであり、私は聞き役に徹することに決め込んだ。 「とにかくさぁ、このOって人にさ、よーく言っといてよ」  そういわれても、私はこの「尾崎批判」の原稿を書いたO氏を知らない。しかしともかく、その後の打ち合わせをスムーズにするため、私は首をたてにふって「わかりました」と答えた。本当をいえば、私だってすぐにでもO氏のところへ行き、「この原稿、どういうことですか」と問いただしたいのは山々だった。しかし、私は物書きなので、私は私の文章で「尾崎」を書くことによってそれに代えようと思っていた。 「それで、この雑誌? うわぁー、すごいですね。知らない人ばっかりが載ってる。これって、偉い人ばかりなんでしょ」  彼はさきほど脇へ押しやった、私が見本として持ってきた雑誌を手にとり、にこやかな顔をした。いままで不機嫌そうな顔をしていたのに、その急変に、私はあきれながら、でも、切り替えの上手なきちんと物事を整理して対応できる人なんだなと、改めて感心した。 「こういう堅い雑誌に載るって、スゴイことなんですよねぇ……。だけど、僕のどういうことを書くんですか、こんな堅い雑誌で」  彼はそう言って、分厚い雑誌を両手でめくっていた。私が趣旨を説明している間、彼は首を少し斜めに傾げながら、うっすらと微笑んで聞いていた。そのとき、目尻のしわが以前に見たそれより多く、また深く刻まれているのを発見し、私は何か不思議な胸騒ぎを覚えた。 「小さいころね、すごく精神的に落ち込んだときがあって。それである曲を聴くことによって、目からうろこが落ちたんです。頑張ることができたのは、そういう曲のおかげだった。だからそういう存在に、僕も近づきたいと思ったんです。その結果、僕がやってきたことに対して正しかったのかどうか、それはわからないんだけど……」 「あなたの歌によって動かされ、励まされ、自殺をまぬかれたという人々が現にいるのだから、あなたの夢は達成されているんじゃないかしら」 「う……ん……責任を感じますね」  彼は両手をきちんと膝の上に載せ、まっすぐな瞳でこちらを見ながらそう言った。 「哀しい気持ちは哀しい気持ちを同程度、同深度味わったことのある人間しか共有できないと思うんです。だから……僕は僕の覚えたすべての哀しみと、それによってどう考え、どう立ち上がったかという、その僕のすべてを伝えてゆけたらいいな、と……」  彼は一瞬、とろんとした目つきをさせながら、ゆっくりと話していた。しかし四年前に話が及ぶと、彼は表情をかたくした。つまり、覚醒剤で倒れる寸前だったときのことだ。私はそのころ、初めて彼と出会っている。 「あのときはまわりもめちゃくちゃだったし、僕の精神状態も悪かった。やりすぎだよ、みんな」 「やりすぎ? 楽しくはなかったの?」 「一番最初のツアーがあったじゃない。あのときが一番楽しかった。そう、あのときだけかな……。楽しかったよ、あのツアーは。みんなでライトバンに乗って地方を回って……」  彼はふいに黙ったかと思うと、今度は不自然なほどおどけた調子で、自嘲気味に言う。 「ねえ、僕の歌で悪いところはどこですか。何かおかしいですか。僕に対する批判って、どういう所なんですか。遠慮しないで教えてくださいよぉー」  たぶん彼は、不意に『クレア』に書かれた自分への批判を思いだしたのだろう。わざと卑屈そうに口をゆがめ、からだをねじって私の顔をのぞきこんできた。 「そんなこと言うと、尾崎君は不機嫌になっちゃうでしょ。それに尾崎豊を知らない誰かが批判してるだけで、私はそう思っていないから」 「いいんですよぉ。ねえ、教えてくださいよぉ。不機嫌になったりしないから。僕、今日は機嫌いいんです。こんなときぐらい、たまには反省しないとさぁ。ねえ、僕いま、反省にまみれてみたいんだよぉー」  私は彼の食い下がりに負けた。 「暗いとか、小さなことにこだわりすぎだとか、悩みすぎだとか、だからそういう歌は重い。歌というのは元来、楽しむためだけにあるものだ、という考えの人からの意見があるわねぇ」  そう言うと、彼はきょとんとした顔をして、そして空笑いしながらこう言った。 「僕だって、悩まずに、楽しく人生過ごせれば、どんなにいいんだろうって思うけど。何も好きで悩んでいるわけじゃあないよ。だけど、どうすれば悩まずにすむの? どうすれば哀しまずにすむの? 教えてほしいよねぇ」 「尾崎君の考える楽しい人生って、どんなふうなの?」 「そりゃあもう、苦労しないでザクザクお金が入ってきて、だれにも文句いわれないで、新宿の一等地にバーンって土地があって、毎日何も考えないで遊んで暮らすことっ!」 「ええーっ」  そばにいたスタッフと私はふきだしてしまった。尾崎もしわを一層深く刻ませて笑い転げている。そうしてふと、真顔になってこう言った。 「バカげているよね、そんなこと。きっと、つまんないと思う」  こうして、一時間ほど雑談したにもかかわらず「尾崎復活」の記事は『文藝春秋』に掲載されなかった。打ち合わせの二日後、『クレア』の一件をさんざん悩みつづけた尾崎は、 「やっぱり『クレア』と同じ出版社の雑誌に自分のことが載るのはイヤだ」  と言ったのだ。私はくやしい気持ちの反面、「尾崎らしいなぁ」と、苦笑してしまった。 ■仕組まれた自由の中で  尾崎と仕事で関わるには、それ相当の覚悟というものが必要になってくる。急に予定を変更されたり、理由があるにしろ突然仕事をキャンセルされたりするからだ。それに彼は、生半可な姿勢をすぐに見破ってしまう。相手の考えている浅はかな考えを、敏感に察してしまう特技が、彼にはあった。それが彼を、ある意味で非常に苦しめていたこともあっただろう。  そんな彼がいく筋もの血と涙を流して作りあげた歌と向き合うということは、とりもなおさずそれぞれが自分自身と向き合うことを余儀なくされるということであって、そのあまりの辛さに悲鳴をあげそうになるときがある。なにしろ、嘘をついたりごまかしたり、息抜きをしたりしてだましだまし生きている人間にとって、彼の伝える歌詞は、触れてほしくない傷口をヤスリでこすられているようなものだからだ。 「疑問に思っていること」や「何かおかしいんじゃないのか」という気持ちをどこへも持ってゆけず、だれにも本質を問うことなく、どこかに置き去りにしたまま妥協して生きてゆかざるを得ない人間は多い。自分がそんなふうに生きていることすら知らずに、時を過ごしている人間も多い。  そんな人間が尾崎豊の歌を聴けば、中途半端で妥協だらけで強いものや組織に迎合しながら逃げ腰で生きてきた自分自身の半生を強く否定、あるいは指摘されたような気分に陥ってしまう。現に彼は『卒業』という曲の中で、「仕組まれた自由に 誰も気づかずに」と歌う。もし本当に「仕組まれた自由」ならば、今まで自分が信じて生きてきた世界が、まるで詐欺だったといわれたような気分になってしまう。その、「詐欺だった」といわれたような「過去」は、決して取り返せない人生の足跡として自分の胸に深く刻まれている。その結果、強い自己嫌悪にさいなまれる。たぶん、「仕組まれた自由」を薄々感じながらも、それを黙って受け入れて生きる他はなかった自分を、自分自身が一番よく知っているからなのだろう。  認めたくはないが、認めざるを得ない気分にさせる歌。それは一番触れてほしくない部分をさらけだされた恐怖だ。若者であればあるほど、その気持ちは強いのだろう。しかし、こういう時ほど「怖いもの見たさ」が頭をもたげてくるものらしい。聴いて自分の弱さを暴露されるのは怖いが、しかしたぶん、その恐怖を連れてくる「尾崎豊」の歌を聴かずにはいられない。そこで聴き手も初めて、自分の生きてきた人生や現在の自己と向き合い、または内面にある自己矛盾をも発見する。  そんなさまざまなことを考え、私は尾崎と向き合い、それを克服しようと試みながら、尾崎の描く世界について何度も書いてみた。しかし何度書き直してみても、尾崎豊という人物、そして彼の作り出す独特の世界や、また彼が語る「愛」や「正義」や「真実」や「自由」の意味は完璧に書きこなすことなどできない。彼は走り続けているわけだし、常に変化している。だれかが今の彼をとらえたと思ってみても、次の瞬間には違う尾崎豊が存在している。だれにも素顔を見せていないように見えるし、どの顔も、素顔のような気もしてくる。だから、本当は私自身を含めて、だれも彼のことを理解していないという結論に達してしまうときがある。そうすると「尾崎なんて、もうやめよう」と投げ出しそうになる。  彼と真剣に向き合う、そして私自身とも真剣に向き合う作業は、疲労が蓄積されるばかりだからだ。しかし、そういう覚悟がないと、彼を追いかけることは不可能のような気がする。だからこそ私は、相当の覚悟をもって彼と向き合いたい、と思うわけだが、それがもろくも崩れそうになる。  またしても、その覚悟さえ期待とともに裏切られるのではないのか。  期待とは、彼が彼の学んだ「何か」を、思うがままの表現でアルバム制作やライブツアーにぶつけ、また新しい何かを彼の中に芽生えさせ、そしてそれを咀嚼した後に、再び表現してほしいという彼自身に対するものが一つ。そうして、その姿をできるだけいい形で文章にしたい、彼とならそれができるという私自身のものが一つ。  その期待と覚悟を構築するまでに、ずいぶんたくさんの時間と労力が費やされた。それらが裏切られる瞬間を、私はとても恐れていたし、また「そうなるかもしれない」という予感に妙な期待も、微量ながらあった。 「彼なら、やりかねない」 「彼なら、何が起きても不思議ではない」  そんな危うい気持ちにさせるのが彼の特徴でもあり、魅力でもある。それは「尾崎豊」だけに許される、裏切ってくれる「快感」であるような気もした。恐らく彼がそれまでに体現した数々の生き様があるからこそ、「裏切る行為」そのものまでもが魅力になり得るのだろう。もし、何の「快感」ももたらさない裏切りだったとすれば、私にとって尾崎豊は単なるワガママな青年に過ぎなかったかもしれない。  尾崎豊に対する私の最大の猜疑心というのは、そういう恐ろしくも不思議な「裏切られる快感」という場所に位置していた。  尾崎豊の存在を初めて知ったのは、一九八七年九月九日のことだった。  仕事のため沖縄に出向いていた私は、次の仕事の予定地・大阪へ向かう飛行機の中で、ライブツアー移動中の彼の一団と出会ったのだった。  季節はずれの沖縄便には、ほとんど乗客がいなかった。移動中の彼らの明るい笑い声と陽気な話し声。そんな中で、ただ一人、尾崎豊だけはライブの疲れからだろうか、狭いシートにうずくまるようにして眠っていた。ときおり神経を張りつめながらキョロキョロとし、不安気に瞳を宙に泳がせたりしている。白いTシャツにブルージーンズが、よく似合っていた。  それにしても、真っ黒に日焼けした健康的なスタッフに囲まれながら、まったく対照的に蒼白い顔をして、長い手足を折り曲げながら窮屈そうに眉をしかめている彼は、とても不思議な生き物に見えた。  そのころの尾崎は、すでにロック界の教祖といわれて久しかった。 ■母に勧められたオーディション  一九六五年十一月二十九日に東京都世田谷区内の病院で生まれた彼は、共働きの両親と五つ違いの兄とともに質素な家庭で育った。いわゆる「鍵っ子」といわれる生活だった。小学校時代は登校拒否児だったという報道がいくつかあるが、実際はそんなに深刻なものではなく、たまたま下級生から悪口をいわれたことを気にした彼が、学校に行くのをためらった時期があったにすぎない。転校した先で、その輪になじめないということもあったらしい。しかしその程度のことであって、「登校拒否」だとか「鍵っ子」「家出」「停学」「高校中退」という極端な彼のイメージは、彼を売り出すための戦略として後から周りの者が大袈裟にアピールした可能性が高い。  それにはもちろん、彼の歌う歌詞から周りが推測して、または彼が少し強調して話した内容が元になって、「神話」が生まれていったことはいうまでもない。つけ足せば尾崎豊は、兄のギターを借りて独学で上達し、文化祭などで歌を披露するヒーローでもあり、集団で家出を実行したりする面も持っていた。その半面、予備校に通い、かなり偏差値の高い高校へ入ろうと人一倍努力する生徒でもあった。 「切り替えが早く、時間配分をうまく使って何事もキチンとやりこなすことのできる理想的なヤツ」というのが、彼がある友人から受けた、当時の彼に対する評価である。ただ、他人の目にはそれほど深刻には見えなかったにしても、彼にとってみればさまざまな要素によって孤独になっていったのは事実のようだった。  デビューのきっかけは一九八二年のCBSソニーのオーディションに受かってのことだった。テープ審査を通過した尾崎は、二次審査である一日目のオーディションをすっぽかして友人の家にいるところを、熱心なソニーの社員によって捜し出されてしまう。そうして翌日、きらびやかな衣装に身を包んだ他の挑戦者たちと一緒に、ありふれたジーパン姿で生ギター一本を抱え、たった一人でオーディションに臨んだ。その席で、一日目にすっぽかした理由を彼はこう語っている。 「えー、きのうは……、きのう、本当は出るはずだったんですけど、ちょっと親に反対されまして出ることができなかったんですけど……。大変、どうも、ご迷惑をおかけしました。まず、どうして親に反対されたかというと、いろいろありまして……。最近、文化祭が僕の学校であったんですけれども、実はちょっとしたケンカをして一週間停学になりまして、それでその文化祭に出れなくなっちゃったわけなんですね。まあ、今年だけならまだいいんですけど……去年はオートバイで交通事故を起こしまして、去年も文化祭に出れなかったという……非常に醜態というか、本当に学校でも珍しいような、そういうことをしまして……。親としても、本当に二回ぐらい学校に出向いたわけで、とても恥ずかしいということで、あまり好きなことをやらせないということになりまして。あと、契約書なんかも見せたりすると、どうもこう、親がしかめっ面をしまして……」  しかし本当は、このオーディションの広告を新聞で見つけ、テープを出すことを勧めたのは他でもない、彼の母親だったのである。それはちょうど締切日の前日だったので、母親は彼に「速達で出せば」と、アドバイスしている。それなのに、なぜ「親に反対されて」と言ったのだろう。  テープ審査を通過したものの、彼自身、まだギターの腕前にはさほど自信がなかったし、自分が世間で通用するほど作詞・作曲に長けているとも思っていなかった。だから急にオーディションを受けることが嫌になったのかもしれない。  しかし、オーディションの選考委員会に臨んだ大人たちは誰もが、尾崎豊の透明で明瞭な歌声と素直な歌詞に感動した。久々に、何か大きなものを予感させる金の卵に出会った気がしたのだ。と同時に、一少年によって忘れていた大切な風景を鮮やかに甦らせ、マンネリ化した日常に馴らされた自分の身体の底から、不思議な熱い力がフツフツと湧いてくるのを止めることができなかったのかもしれない。  そこで、彼は最優秀賞を受ける。  ケンカや煙草などで停学中だった彼が、ちょっとした気持ちで作成した一本の音楽テープ。それを母親に勧められポストにコトリと落とした瞬間から、彼の人生が思わぬ方向へと進み始めていたのだった。  一九八三年十二月一日、尾崎豊は高校在学のままアルバム『十七歳の地図』、シングル『15の夜』でデビューした。デビューアルバムは、当時、高校生であり音楽活動に制約が多いという理由で、千五百枚しか発売されなかったという。翌年の三月、彼は、定員三百人の新宿のライブハウス「ルイード」で、一般四百人、マスコミ関係者二百人が殺到するという前代未聞の動員数を、そのデビューライブで記録した。 「場内は異様な雰囲気だし、尾崎の姿は人が多すぎて見えないし、でも『腐った街で埋もれていくなよっ!』って叫ぶ尾崎の殺気はビンビン伝わってきて、すごかったですよ。これは本物だな、って直感したし、僕はもう、鳥肌がたって失禁しそうでしたよ。これは、大変なことになったぞ、という期待と危険が入り交じった妙な感じでしたね。無名の新人を見て震撼したのは、後にも先にも尾崎豊だけですよ」  当時、音楽関係者としてそのライブを見たO氏は、そう言う。  そのデビューライブを皮切りに、彼は一躍ロックスターへの階段を駆け上る。余談だが、このデビューライブは一九八四年三月十五日に行われた。それは、彼が通っていた高等学校の卒業式の日でもあった。彼は生涯、三月十五日という日にこだわり続けていた。東京都内の、あるレストランの壁に、いろんな人の落書きに混じって彼のサインがある。「三月十五日」の日付は、ひときわ大きく、力強く書かれてある。それは、彼の中でのある一つの強烈な執着であったと思う。  なぜなら彼は、卒業を間近にひかえた一九八四年一月二十五日、青山学院高等部を自主退学したからだった。  心を通わすことのできない他人との間に、どうしても寄り添えない感覚の開きがあったのだろう。彼は、何かを覚えて勉強をすることは好きだが、通っていた学校の体質にはなじめないと感じていたらしい。そのまま勉強は続けたいと思ったが、彼は精神的な健康の方を選んだ。  つまり、そりの合わないなじめぬ場所に自分を置いていても、何も得るものがない。精神を病むだけだ。そう判断したのだった。しかし、だ。彼は小学校時代から哲学書を読んだり、漢文や短歌に親しむという、少し大人びた趣味を持っていた。 「本当は大学へも行って、バリッとはくをつけてから、こういう世界に乗り込みたかったんだけど……」  おどけながらそう言う彼には、ある種のコンプレックスもあったのだろう。彼は密かに勉強を続けた。いろいろな方面から自分を高める努力を惜しまなかった。初めて触れたピアノを夢中で練習した。ギターもうまくなりたかった。たくさんの本を読みあさり、たくさんのニュースを見た。とくに、彼は韻律の整った漢詩が好きだった。ライブでも、たびたび漢詩の一節をそらで言ったりしてファンやスタッフを困惑させた。そんな困惑などおかまいなしに、「……曰く、」と胸を張り、遠くを眺めながら少し照れたように、でもかなり自慢気にマイクを通して暗誦してみせるのだった。 「わからないよぉー」  ファンから声があがると、彼は言った。 「わからない? じゃあ、勉強しなさい」  腰に手をあて、胸を張ってそう言う。しかし二度と同じフレーズを口ずさんではくれない。彼のステージは、そんなに甘くはないのだ。聞きのがしたら、それでおしまいである。彼が何を語るのか、彼が何を伝えてくれるのか。だからファンは、神経を集中して耳を傾けようとする。型どおりにショーアップされたステージをこなす他のアーチストたちと違い、彼のステージは毎回変化する。何が飛び出すかわからない。お楽しみ袋の中にビックリ箱が入っているようなものである。  それは、毎日ついて回っているスタッフたちにとってさえ、そうだった。だから、みんな尾崎の動きや言葉に神経を集中する。集中していないと、とたんにステージの行方がわからなくなるからだ。スタッフもバンドメンバーもファンも、ほどよく緊張する。中には「気取るなよ」と野次るファンもいた。そんなとき、尾崎豊は人一倍傷つく人間でもあった。 ■トラブル・メーカー  デビューライブから四ヵ月弱の七月一日。東京・日比谷野外音楽堂で他のアーチストの前座を務めていた彼は、とっさに照明塔によじのぼった。三メートルはある。ステージは遠い。そうして、そこからジャンプし地上に飛びおりた。気持ちが良かった。彼のことを知らない客も喜んだ。味をしめた彼は、翌月の八月四日、同じ日比谷野外音楽堂で行われた『アトミックカフェ・ミュージックフェスティバル'84』に出演中、今度はより高い照明用のイントレ(照明機器などを組む時の足場)に張りつき、下を眺めた。七メートルはあった。ステージはコンクリートだ。観衆が騒然としながらも、嬉々として自分のジャンプを待っている気がした。「遠いな」と思ったが、躊躇は一秒にも満たなかった。彼は、宙に舞った。  その日のイベントは、反核運動に賛同するアーチストが集まり、それぞれの持ち歌を歌う方式で進められていた。彼は二曲目を歌っている途中、七メートルの高さから宙に舞った後、左足を骨折した。しかし、彼は両脇からスタッフに支えられ、最後はステージにはいつくばって全曲を熱唱した。踵部小骨圧迫骨折。全治三ヵ月の重傷だった。 「あのときは、長い釘を何本も入れて、そりゃあ大変なもんでした。でもね、豊は全然へっちゃらなんですよ。何度も入院中のベッドから抜け出して街をうろつくんです。困ったもんですよ。一週間とベッドに寝てはいませんでしたからね。それでも治りは、驚くほど早かったんですよ」  尾崎の父親は昨年(一九九一年十月)、彼のステージを見にきた代々木競技場第一体育館の席で、てのひらの骨を折り派手に包帯をしていた私に、笑いながらそんな話をしてくれた。 「だから、あなたの骨折も、きっとすぐ治りますよ」  尾崎の父親は、遠くを眺めるように、そのときの息子の姿を懐かしむように、やわらかく笑った。隣の席では、母親が目を細めて何度もうなずいていた。  イベント中に骨を折ったため、その後の彼のステージは、予定がすべてキャンセルとなった。このころから尾崎豊は、高校時代の影をまるで引きずっているかのように、「トラブル・メーカー」と業界でもささやかれるようになる。  アーチストを招聘するイベンター側は、そのアーチストが何かのトラブルを起こしたとき、その責任や後始末に追われることになる。あちこちに頭を下げなければならない。そのため、トラブルを起こしやすいアーチストには、敏感になる。それがアーチスト自身にとって、いかなる理由によるトラブルだとしても、ビジネスとして動いているスタッフにとって、結果的には、どのトラブルも同じなのだ。  左足が完治した尾崎は、延期になっていた全国ツアーを、ちょうど四ヵ月後の十二月三日から秋田市文化会館を皮切りに再開する。全国二十一ヵ所を回ったこのツアーは、事故後ということもあり「復活」ツアーとも呼ばれた。彼はデビュー一年目にして、早くも一つめの「延期」と「復活」を経験してしまっていた。  そして一九八五年八月二十五日。デビューからわずか一年八ヵ月の彼は、大阪球場に三万人弱のファンを集めてワンマンライブを行った。十九歳の尾崎は、全国四十一ヵ所を回ったサードツアー「トロピック・オブ・グラデュエーション」のすべてを濃縮するように、その三時間を、ときには転げ回りながら、ときにはささやくように、ときには哀しみに包まれながら、教え諭すように歌い切った。 「みんなが今までに流した涙が、いつか必ず報われる日がくることを祈っています」 『卒業』を歌う前に残した、彼の言葉だ。 ■何もかもが違っていた──活動停止  その年の十一月一日。大阪球場からたった二ヵ月しか経ずに、十代最後のツアー「ラスト・ティーンエイジ・アピアランス」を開始する。全国二十六ヵ所を回り、とくに十一月十四日、十五日の二日間で、約三万人のファンを代々木競技場第一体育館に動員した。彼はこの日のライブで、突如「無期限の活動停止」を表明した。そしてファンに対し、次のように語りかけた。 「今日、集まってくれたおまえらの中に、俺と一緒に本物の愛や真実を見つけようと歩いていく連中がいるならば、俺はそいつのために命を張る。それが俺の生き方だ。笑いたい奴は笑え。俺を信じる奴はついて来い」  実質上、このMCがファンとの「再会」を約束するものとなった。このときの記録が、テレビ番組「早すぎる伝説」の元となる。  その直後、二十歳の誕生日を前にした十一月二十八日、彼は三枚目のアルバム『壊れた扉から』をリリースした。十代のうちに、オリジナルのアルバムを三枚もリリースできたソロのロック歌手は、世界にたった一人しかいなかった。それが「尾崎豊」なのである。関係者たちは、世界にたった一人しかいない「尾崎豊」のことを誇りに思った。  しかし一九八六年一月一日。福岡国際センターでのライブを終えた彼は、宣言どおり「無期限活動停止」に入った。  疲れていたのだろう。普通の高校生が、一躍ロック界のスターになってしまったのだ。半分遊び心で、自分がどこまでやれるのか試すつもりで作った歌が、本人の想像をはるかに超え、あまりにもスムーズに受け入れられた。レコードがとんとん拍子に作られ、売れてゆく。どんどん膨れあがるファンの数と、それに呼応して勝手に彼を「教祖」と書きたてるマスコミ。それに追い立てられるように歌い続け、走り続ける彼。ファンの期待が痛いほどわかる。だから、それに応えようとする自分がいる。しかし、何かが違うような気もする。 『路上のルール』には、そんな彼の心を如実に語る歌詞が踊る。 「もう どれくらい流れたろう 今じゃ本当の自分 捜すたび 調和の中で ほら こんがらがってる」「もう 自分では 愚かさにすら気付き 諭す事もなく 欲に意地はりあうことから 降りられない」「月にくるまり 闇に吠え 償いが俺を とらえて縛る そいつに向って歌った」  また、『Driving All Night』で歌う、 「さまようように 家路をたどり 冷たい部屋にころがりこむ 脱ぎすてたコートを押しのけ ヒーターにしがみついた この部屋にいることすら 俺をいらつかせたけど 疲れをまとい 床にへばりつき 眠った」  というのは、たぶん彼の当時の生活そのものだったのではないか。  きっと、楽しい生活も演じながら、半面ではこんな生活も抱えていたのだろう。 『Freeze Moon』でも、 「いったいなんだったんだ こんな暮し こんなリズム いったいなんだったんだ きっと何もかもがちがう 何もかもがちがう 何もかもがちがう」  と叫び続けている。彼の中の混乱が限界になるのに、たいした時間は必要ではなかっただろう。自分の上に覆い被さる虚像のベールが、知らないうちに分厚く身体を縛りつけていたのかもしれない。  しかしファンにとって、彼の突然の「活動停止」は衝撃だった。尾崎豊というたった一人のアーチストに求める答えが多すぎるからこそ、ファンはその停止に戸惑った。  同年一月十四日の深夜。代々木競技場第一体育館で一九八五年十一月十四、十五日に行われた十代最後のライブと、彼自身のメッセージを織り込んだ「早すぎる伝説」がCX系全国ネットでオン・エアされた。津波のような反響が放送局、レコード会社などに「リクエスト殺到」という形になって現れた。おびただしい数の署名も届いた。そのリクエストに応えて「早すぎる伝説」が再放送された。ファンの興奮を不器用にすり抜けた尾崎豊は、その年の五月、たった一人で成田からニューヨークへと旅立った。「必ず、命を張ってこの場所に戻ってくる」。そんなファンとの約束を残して。  彼の不在の間、彼のしたためた歌だけが一人歩きし、それによって教えられ、つき動かされるファンの数は細胞分裂のように増え続けていった。 [#改ページ]   第三章 危険な風景との出会い  断続的なニューヨークでの生活を終え、彼は日本に戻ってきた。一九八六年十二月二十三日のことだった。ニューヨークでの彼の生活については後に述べるとして、彼は事務所の指示で、すぐに活動準備に入る。彼は、後にそのときのことを、こう述懐している。 「日本に帰っても気持ちは落ちつかなかった。ホームレスな感覚が強かった。自分の親を親とも思えず甘えられず、友達にも会いたくはなかった。そこに待ちかまえていたのが次の運命だったのだろう。  俺は運命をずたずたに引き裂かれた。約束したはずの金も、そして俺から愛まで奪い去った。俺には愛を奪われたことが一番辛かった……。金ならまだ忘れようもある、だが俺の心は引き裂かれた。ニューヨークに行こうと思った動機もそれと似たようなものだ……。本当は傷心の旅だったんだ。だが空で覚えた歌のように俺には愛や夢ばかりが心に舞っていた。まだ馬鹿だった」  やがて二月には所属していた事務所マザー・エンタープライズがレコード会社「マザー&チルドレン」を設立。彼は所属事務所が設立した、その新しいレコード会社と、以前まで契約していたCBSソニーレコードの争いに巻き込まれることになった。 ■結局はビジネスさ  そもそも衝突の直接の原因は、次のようなことだったという。  現在レコードは「原盤会社」といわれるプロダクションが音源を制作し、レコード会社が宣伝し販売するというように、その役割が分担されている。レコード会社からプロダクションには、「原盤印税」が支払われる。しかしそれは、三千円のCDで約三百円程度である。売り上げから見るとプロダクションよりレコード会社の取り分の方が圧倒的に多い。そこで衝突が起きた。 「物を作り出す努力をしているプロダクションにだって、もっと利潤が分配されるべきだ」  結局この衝突は裁判に持ち込まれ、尾崎豊は社員三人、ロックだけの小さなレコード会社「マザー&チルドレン」の契約となる。資本金五千万円。社長以下、スタッフ、アーチストら、すべて仲間内からの出資だったという。  大手のレコード会社というのは、そのほとんどが電気メーカーをはじめとする、さまざまな親会社をバックに、販売経路、工場体制、宣伝制作のシステムを司る。尾崎が以前いたCBSソニーも、大手の内の一つだ。しかし新しいレコード会社に移った彼には、そんな後ろだてが一つもなくなった。彼は、前いたCBSソニーに戻りたいと思っていた。 「俺は事務所とメーカーの争いに巻き込まれるはめになったんだ。そして巧くハメられた。ニューヨークから帰る頃にはすっかりお膳立ても済んでいた。  俺を取り巻いて金が動く。全てが全てに於いてそうだ。皆誰もが一緒なんだ。どちらを選ぶかなんて馬鹿げたことに思えた。  俺を理解する奴なんか一人も、ただの一人もいない。俺が死にもの狂いで作る歌が、それが俺の傷から滴る血だということなど意味のないこと。  日本に帰ってからが酷かった。心傷ついたまんまの俺に向かってはっきりこう言った奴がいる。絶対に忘れられない言葉だ。 『これからはおまえを馬車馬並に働かせて儲けてやる。おまえはただの馬車馬なんだよ』  俺は日本に帰ってようやく物事の内情を知り、元に戻りたいと言ったがそうは問屋がおろさない。ほかの連中もあの頃は俺にこう言って冷たくあしらってくれた。 『お前は調子がいいよ』  行き場がなかった。出したくもないレコードを作らされた。勿論曲や歌には全身全霊で魂を込めたが、俺はまた醜く金のためにこき使われていたんだ。アーティストという名の奴隷だった。そして思うようにいかなくなった」  そのときの所属事務所や、その社長に対する恨みは、後に彼が発表した「昔の事なんかもう忘れちまいたいよ」で始まる『RED SHOES STORY』という曲に叩き込められていることからも、相当激しかったことをうかがわせる。 「儲け合ったやつらとも今じゃ遠い縁になってさ 色々覚えたよ 上手くはめられたのは誰」「ああ 用心にこした事はねぇ」 「もう誰も信じやしないと よくある事さ」「結局はビジネスさ」「嘘だけの言葉に 誠実に答えても 互いに疲れちまうのさ」「なぁ 俺の置き忘れてきたギターはまだあるかい 返してくれねぇかい もう貸し借りはねぇぜ」  と怒りをぶちまけ、だけど彼は、 「あんたも同じ傷みを背負ってたってね」  と相手に対して理解を示す。そして語りかける。 「気をつけた方がいいぜ若者よ 負い目を背負って生きてくなんてまっぴらだぜ 上手い話なんてあるもんじゃないさ 誰もかれも責任逃れ 知り尽くした顔して 弱みに付け込んで笑ってら笑ってら」  そして彼は、また立ち上がるための学習をする。 「だけど俺は知ってるぜ 次の仕事に間に合うまでの 寂しいゲームだと」  彼は生涯、このときのことにこだわり続けた。「裏切られた」という気持ちが、日増しに募っていった。  彼の気持ちは解決しないまま、アルバム制作は行きづまり、リリース予定は大幅に遅れた。そうして七月一日、アルバム制作と並行する形で茨城県民文化センターを皮切りに「TREES LINING A STREET」ツアーを開始した。左足を骨折した後の「復活」から数え、今度は二度目の「復活」ツアーでもあった。  尾崎にとって二度目の大阪球場でのコンサートは、一年間のブランクがあったにもかかわらず、チケットは即日完売。絶大な支持は相変わらずで、関係者は胸をなでおろした。ツアーの合間にあたる八月には、十年間の予定でその年に始まった平和コンサートが二日間にわたって広島で行われ、趣旨に賛同した他のアーチストとともに、彼は積極的にステージをこなした。そこで彼は、リリース予定の『核』などを熱唱、また当初は出演予定になかった二日目にも他のアーチストのステージに飛び入り、代表曲などをアコースティックギターで弾き語りし、「アーチスト尾崎豊」としての存在を強烈にアピールした。八月末には東京・有明コロシアムに二日間で二万人を集め、健在ぶりを見せつけた。  私が彼と大空の中で出会ったのは、そんな最中の九月九日のことだった。  そのころの彼は自分のことを知らない人間に対して、かなり敏感だったようだ。これだけ活躍し、マスコミにも騒がれ、「若者の教祖」「カリスマ」などと祭りあげられているにもかかわらず、どうも一般的には今一つ知名度が低い。そのことに対し、彼はずいぶん気にしているようだった。「どうして僕のことを知らないの」と、自分を知らないといった人に向かって不思議そうに尋ねたりする無邪気で、少し傲慢な彼の姿があった。  そういう意味で「尾崎豊」という人は、不思議な印象を私に与えた。いったい、「ねえねえ、僕のことを知ってる?」と真剣に聞くロック歌手が他にいるのだろうか。売れているシンガーはプライドがあるから、そんなことは決して聞かない。売れていないシンガーはプライドが傷つくから、よけいに聞けない。では、この尾崎豊というシンガーは、いったい何者なのだろう。  私にとって、そういうことを真剣に、そして屈託なく聞いてくるロック歌手の方が、見栄や虚栄心を大事にする他の人間たちより、ずっと不思議で、かつ魅力的な存在に思えた。 ■白い粉の誘惑 「尾崎ったら、全然海が似合わないの」  バックバンドであるハートオブクラクションのメンバーの一人が、蒼白い顔で沖縄をあとにした尾崎を、茶化すように言った。尾崎は、さらっとその言葉を受け流し、弱々しく笑うと、また不安定な眠りへと落ちていった。  彼は、沖縄でのちょっとした事件に、ひどくこだわっていた。そのときの様子を、スタッフや尾崎自身の話を元に再現してみよう。  数日前に沖縄入りをしたとき、彼は妙にウキウキしていた。飛行機から降り立ち、ホテルに向かうタクシーの中から沖縄の街並みを眺めていた。しかし一行がホテルに着いたとき、思いもよらない出来事に遭遇した。 「おい、オレたちの予約が入ってないみたいだぜ」 「何だって。ライブはどうなるんだよ」 「野宿なんて、冗談じゃないぜ」 「事務所の手違いかな」  一瞬、ひんやりとした空気が流れた。スタッフが数人、ホテルのフロント係とすったもんだしている。なかなか意思の疎通が図れず、みんなイライラしていた。そのときだった。 「あれ、尾崎は?」  スタッフの一人が不思議そうな声をあげた。ホテルに予約が入っていないというアクシデントに見舞われたため、いままで気づかずにいたが、そこに必ずいるべきはずの人間が、欠けていたのである。 「あれ、ほんとだ。どこいったんだろ」  キョロキョロとあたりを見回してみる。 「オザキー」  呼んでも返事がない。急に緊張した空気がその場を支配した。  いったいどこへいったんだ。また途中でツアーが中止になるなんて、イヤだぜ。ああ、これだからトラブル・メーカー尾崎との仕事は不安だったんだ。さあ、困ったことになったぞ。尾崎、やっかいな事件だけは、よしてくれよ。  それぞれがツアー前から抱えていた不安を、急に心の中に甦らせた。だれもが、一瞬の沈黙に身を固くした。と、向こうから陽気に手をふりながら歩いてくる尾崎がいる。 「ねえ、みんなっ。早く泳ごうよぅ!」  スタッフの心配をよそに、彼は無邪気に笑いながら、そういった。上半身はすでに裸で、やけに派手な海水パンツを着用している。 「どうしたの、みんなっ」  彼はそう言って、いそいそと海へ向かおうとしているのだ。 「尾崎、その海水パンツ、どうしたの」  いぶかしげに誰かが聞く。 「うん。あそこの売店で買ったんだよ」  にこにこと、まるで少年のようにあどけない顔をして売店を指さす彼に、一同は唖然とした。 「脱いだ洋服は?」 「カバンは?」 「クツはどうしたの?」  次々に質問が飛ぶ。彼は一瞬、キョトンとスタッフを見つめ返した。 「あれっ? ああ、忘れてた。たぶんあそこのトイレに置いてきちゃったよ。ねぇ、そんなことより、早く泳がないの?」  ホテルの予約が入っていなかった心配など、どこ吹く風。甘えた声を残し、彼はるんるんとスキップまでしながら白く光る海へ飛び出していった。  あきれ返ったスタッフだが、何よりも皆、そんな尾崎豊を心から愛していた。やっとホテル側と話が通じ、チェックインをすませると、彼の後を追って海へと繰り出していった。申し分のない快晴。眩暈《めまい》がするほど、あたりは明るい。 「なあ、尾崎。お前さぁー、やっぱ海は似合わないよ」 「いえてるぅー。海はキミにとって、まぶしすぎて明るすぎる。似合わないー」 「だいたい尾崎に健康的な青空は似合わない。健康的なスポーツもいけないな。ローラースケートとかしてたら、お笑いだぜ」 「ほんとだ。部屋で一人こもって、暗く、寂しくリリアンなんか編んでる方が絶対似合ってるぜっ」  みんなが無遠慮な笑い声をたてた。彼も不器用に笑った。みんなが笑い止むまで、調子を合わせて笑ってみた。天を一瞬仰いで、そうして視線を落とした。濡れた海水パンツや、濡れても濡れてもすぐに塩が吹き出してくる身体、そして太陽の光さえ、急に虚しく見えた。  チェッ。  彼は心の中で軽く舌打ちをしてみた。すると急激に疲労を感じ、どうしても部屋に向かわなければならない気分にとらわれた。 「あっれー、尾崎君。もうお帰りですかぁー」  だれかがまた、彼を冷やかすようにして声をあげた。いくつもの笑い声が、彼の背中を追い越していった。彼は最後の力をふり絞って、笑ってみせた。  チェッ。  彼はまた、舌打ちをしてみた。  僕にだって、海と仲良くぐらいできるさ。  そう思えば思うほど、足も胃の中も、まるで鉛のくさびを打ち込まれたように重く感じられた。深い疎外感と、癒されぬ孤独感に襲われながら、彼は一人、ホテルの部屋で沈黙した。分厚いカーテンの隙間から、わずかな光がこぼれて絨毯を淡く照らしている。それをぼんやりと見つめながら、彼は沈黙し続けた。広げたノートには、何ひとつ明確な答えを示す文字は踊らなかった。  その翌日、苦い気持ちのまま終えたステージはまったく満足のいくものではなかった。しかし、いまの彼はその処置をどうしていいのかすらわからなかった。考えることすら苦痛だったのかもしれない。このまま、続けてゆくしかないのだろうか。ツアーの合間に、レコーディングも待っているのだ。  彼はその夜も、ベッドの上に横たわりながら、コーヒーに溶かされてゆく「白い粉」の誘惑にかられていた。 ■限界と終焉の予感  重たい気分を引きずったまま目覚めた彼は、倒したシートから起きあがりコーヒーのおかわりを三杯した。飛行機は、すでに足摺岬まで来ているとアナウンスが入った。 「尾崎って、飛行機が怖いんだよな」  スタッフの一人が、おとなしく息を潜めて座っている彼に声をかけた。それに答えるように、彼はちょっと微笑んでみた。一緒にツアーを回っていても、だれも、他人の心の中まで微細に知ることなどできない。  OZAKI MOVES AGAIN  そろいのTシャツに刷り込まれた文字が、彼の瞳を刺激する。何度も失意のどん底へと叩き落とされながら、それでも何度でも起きあがる。そんなことを繰り返しているうちに、彼は、もう何が何だかわからなくなっていた。ニューヨークでさえ、答えなど見いだすことなどできなかった。それどころか日本に戻るなり、大きな裏切りが待ち構えていた。彼は『街路樹』で「運命のいたずらと 泣けるかな」と歌っているが、まさにそういう気持ちだったのだろう。  デビューから二年は、夢中で駆け抜けた。彼はそのとき『Driving All Night』の中で、こう歌った。 「少しぐらいの時を 無駄にしてもいいさ」 「街のドラッグにいかれて 俺の体はぶくぶく太りはじめた それでもまだこんなところに のさばっているのか」  しかし彼は、 「俺はまだ だめになりゃしないさ」  と思っていた。あの気力が、どうして今、湧いてこないのか。  彼は、いくつもの疑問を抱え込んだまま、何も解決策を見いだせずに孤独を感じているだけだった。仲間は、まわりにいる。一緒にツアーを回ってレコーディングをして食事をする。楽しいときには笑い、酒を飲んではバカ騒ぎをする。メンバーはいい奴ばかりだ。一所懸命やってくれてる。心から、そう思う。それなのに、おいしいはずのお酒は喉に痛いだけだ。  彼は、メンバーやスタッフとの距離がどんどん離れてゆくような幻覚に悩まされていた。信じていた人から巧くハメられたように、もしかしたら仲間たちからも裏切られるんじゃないか。そんな不安から、逃れられない日々が続いた。「もう、だれも信じられない」とも思ったという。 「尾崎、ドラッグは自分からやめないとダメだよ。自分で判断してやめなければ、本当にやめることはできないんだ。もう、子供じゃないんだからわかるだろ」  ある時スタッフの一人が、彼の不審な行動を感じて声をかけた。しかし彼の耳は、そんな忠告を正確にキャッチすることが、すでにできない状態にあった。まわりの者たちのいく人かは、「アーチスト尾崎豊」の限界と終焉の予感を、ひそかに心の中で確信に変えつつあった。メンバーたちは、尾崎豊の類いまれなアーチストとしての才能を最高に評価していたし、最高に愛していた。しかしだからこそ、その終焉の確信は、それぞれの心の奥で哀しいほど冷淡に進行していったのかもしれない。 ■誤解を恐れたかよわき小羊  飛行機が、最終の着陸体勢に入った。私は背筋を伸ばして、外の景色に目を凝らした。その瞬間、巨大な鉄の塊は滑走路に舞い降りた。  ふと気になって前方に目をやる。彼が仲間たちと一緒に立ちあがり、通路に出ようとして腰をかがめているのが見えた。思ったより背が高く、さっきより一層顔が蒼ざめてむくんでいる。そうして後ろのほうで立っている私を見つけ、ピョコンと頭を下げた。その姿は、とても自然だった。  今から思えば、彼はいつも愛想がよく、行儀もよかった。礼儀正しく、常にまわりに気を配ろうとしていた。そばで見ていて、痛々しいほどである。尊大な態度は、決して取らない。目上の人に対し、横柄な口のきき方などめったにしない。彼は『卒業』という曲の中で「行儀よくまじめなんて 出来やしなかった」と歌っているが、実際の本人は至って真面目で行儀のよい青年だった。きっとそれは、世の中で通常いわれている「行儀よさ」や「真面目さ」とは、少し違うのかもしれない。  たぶん、自主退学した彼の学校生活において、何事もなければ彼はどこまでいっても「行儀よく、真面目」な生徒だったのではないかと思う。その、「何事もなければ」というところが問題になってくるわけで、きっとそれが教師や他の生徒たちにはさほど重要な意味を持たない日常レベルでの出来事や物言いだったとしても、彼にとって耐え難い「誤解」や「すれ違い」を生む結果であったからこそ、それは彼の中でだけ「重大な出来事」として変化していったのだろう。  彼は、自分に対する評価が、「誤解」によって歪められることを小さいころから極端に恐れていたのではないかと思う。だからこそ学校の廊下で、ちょっとした口論をしていた女生徒と彼の姿を見た女教師が、無神経な声で「何、いちゃついてるのよ」と言ったことに激怒したのだと思う。「それ、どういう意味だよ」と尋ねても、中途半端な笑いしか漏らさない女教師に対し、「何も知らないくせに、でたらめなこと言うなよ」と思ったのだ。その上、そういう大人の下品な憶測にも腹が立った。彼は怒りのやり場がなく、つい、廊下の窓ガラスをこぶしで割ってしまう。  彼が『卒業』の中で「夜の校舎 窓ガラス壊してまわった」と歌っているのは、何も本当に彼が窓ガラスを壊して回っていたからではない。一方的な教師の思い込みによって自分が「誤解」を受けたまま存在する。それを正したり、弁解したりする余地もない。それが許せなかったのだ。生徒にだって、言い分がある。それに耳を傾けず、「あの子は、こういう子だ」と一方的に決めつけられたからこそ、激怒したのだ。しかし、激怒したからといって教師を殴るわけにはいかない。どこにも怒りを表す場がない。とっさに眼に映ったものがある。たった一度。たった一度だけ、こぶしをその眼に映った窓ガラスに突き刺した。  そうして彼は、停学になった。  彼は『街路樹』という曲で「過ちも正しさも 裁かれる」と歌っているが、そのときの停学に至った経験も反映しているのだろう。しかし、だからといって教師を一方的に責めたりはしない。 「人は誰も縛られた かよわき小羊ならば 先生あなたは かよわき大人の代弁者なのか 俺達の怒り どこへ向うべきなのか」  という『卒業』の歌詞は、自分を精神的に追いつめる原因の一つとなった周囲の人間に対し、ひどく優しく寛容だ。  中学時代の彼も、生徒会の副会長を務め、明るく元気なクラスの人気者だったという。正義感も人一倍強く、クラスでカンニングが発覚したとき、当時学級委員長を務めていた彼は、その責任を取り、丸坊主になったという。  そんなエピソードを知らなかった私の目にさえ、礼儀正しい彼の立ち居振る舞いは、「芸能人」と称される人々の中では、あまりにも律儀に映った。 「それじゃあ、明日のライブで……。絶対に見にきてくださいね。ロックンロールですよっ」  そう言ってこぶしを突きあげていた一見もろそうで、傷つきやすそうで、蒼白い美少年は、一体どんな主張を掲げてロックしているのだろう。私はステージでの彼が想像できなかった。 「これをもって、ぜひ来て下さい」  そう言って、尾崎のかたわらにいたスタッフから名刺を渡された。  その日の夜、私は初めて尾崎豊の曲を聴いた。  CDジャケットに写しだされている彼の乾いたシルエットは、実際に私の目の前で話していた彼とはまったく異質に見えた。飛行機の中では、あんなにおとなしく律儀な青年で、それでいて落ち着きのない子供のようなまなざしで、ふわりと優しく笑っていたのに、そんな表情など、どこにも見えない。  私にとって、彼の曲は何だかとても「悪い予感」がした。つまりこれまでの既成概念をぶち壊されるような不安にとらわれたのだ。一瞬、聴くのをためらった。私は、自分の脳細胞の中へ他人の思考が組み込まれることにより、覆される自分自身を予想し、戦慄した。 ■哀しみ色の危険な人波  翌日は平日ということもあり、神戸への道はスムーズに流れていた。そして「彼」の曲は、その流れに立ち向かうように、まるで私の精神構造を破壊させるかのように、カー・ステレオから流れていた。どの曲からも、忘れかけていた熱い想いを無理やり思い出させるかのような歌詞が流れた。なじみ深い神戸の街並みが、見知らぬ土地の空気を抱え込んだように見えた。その変化によって私の中に哀しみが生まれた。その哀しみは「彼」が生きるために流しつづけた涙の代償のように思えた。  神戸三ノ宮の地下街で手に入れた小さな花束を抱え、私は神戸国際会館へと急いだ。腕時計の針は、すでに四時五十分を指していた。ホールへ近づくにつれ、人込みが激しくなってくる。この、渦巻く人波に、私は一種の危険な風景を感じていた。  こんなにも大勢の人たちが、尾崎豊の本当に伝えたい意味を、確実に受け止め、それだけのためにやってきているのだろうか。こんなにも多くの人々が、そんなにも辛い思いを抱えてやってきているのだろうか。そんなにもやり切れない思いばかりが多いのだろうか。それを、「尾崎豊」という人物を通してしか、語れないのだろうか。  そう思って、わずかに怯えた。  哀しみの色に包まれた人波が、私にはやけに危険に見えるのだった。  私はファンにもみくちゃにされながら、関係者入口にたどり着いた。ガラス戸の向こう側にアルバイトらしき警備員が物々しく立ち並び、ファンが押し寄せてこないように見張りをしている。一番前で並んでいる人たちは、ガラス戸に身体を押しつけられ、髪の毛や洋服をくしゃくしゃにしながら、それでも必死にチケットを握りしめていた。  楽屋へ顔を出すと、「遅かったじゃないですか」という第一声とともに、少しすねたような尾崎の姿があった。昨日と同じ、白いTシャツにブルージーンズだ。先のとがった、黒いブーツを履いている。口元を微妙に歪ませ小首を傾げながら、斜め下から私を見上げるようにしている。しかし、怒っているふうでもなかった。 「どうも、すみません。その代わりといっては何ですけど、これを……」  後ろ手に隠していた花束を差し出すと、彼は少しはにかんで微笑んだ。そうして手を差し延べてそれをつかむと、いきなり花の中に顔を埋め、そっと離した。しばらくの間、彼は顔を斜めにして、ドアにもたれながら花束を見つめていた。忙しく動き回るスタッフのざわめきが高い天井に反響しては、甲高い楽器の音と混じり合っていた。 「ありがとうございます」  彼は、忘れたころにポツンと、花束の礼を言った。  彼の楽屋はだだっ広く、ガランとしていた。真ん中にテーブルとソファーが置いてあり、フルーツを盛り合わせた大皿が、ラップにきっちりくるまれて置かれていた。その脇には、「尾崎豊様」と書かれた封筒が二、三通、無造作に投げ出されていた。そしてかすみ草だけの、かなり大きな花束があり、やはり「尾崎豊様」というメッセージが張りつけてあった。 「スキューバダイビングをね、やりたいなと思ってるんです」  彼はソファーに腰を下ろすなり、いきなり海の話をしだした。 「ダイビングですか? あの、やったことはあるんですか」 「いえ、ないです。ないですけど、みんなツアーの合間に沖縄でやってたそうで。ライセンスまで取った人もいるから、参りましたよ。ハハハ。……うん、だからね、僕もダイビングをしたいなと思って……」  私には、彼がダイビングに固執する理由がよくわからなかった。しかし、海の世界をのぞいてみるという趣味は、彼にとって素晴らしい体験になるような気がして賛成した。 「何事もやってみることが大切だから、挑戦してみればいいじゃないですか。だけどツアーとかレコーディングとかで、いまは忙しいんでしょ……」  彼は私の言葉に、ひどく怯えた眼をして、哀しそうにうつむいた。 「そうですね、忙しいですね……」  それっきり彼は、ダイビングの話には触れなかった。頻繁に訪れるスタッフから何枚ものサインを依頼され、作り笑いを必死で隠しながら、彼は優雅にサインペンを走らせた。  午後六時三十分。彼は、楽屋を後にした。 [#改ページ]   第四章 白い運命  枕元の、激しい電話のベルで私は飛び起きた。暗闇の中、手探りで受話器をとる。 「尾崎が倒れたよっ!」  しわがれた声は、まだ眠りから覚めない私の頭の中をカラカラと空回りして、左耳に戻ってきた。その意味がわからない私は、やけにのんびりと、こう尋ねた。 「どういうことですかぁ?」  相手は説明するのももどかしそうに、早口にまくしたてた。 「尾崎がね、尾崎が倒れたんだ。やってくれたよ。とうとう、やってくれたよ。来るべきときが来たよ」  興奮したその口調があまりに激しかったため、私はようやく夢から覚めた。話の内容がキチンと理解できたわけではなかった。とりあえず、尾崎豊に関する電話であることだけは確かなようだった。 「さっぱり意味がわからないんですけど、説明してくれないかしら」  私は時計の針をチラリと見た。午前三時を少し過ぎたところだった。 「今日は新潟県民会館でコンサートの予定だったんだけど……。時間がきても楽屋から尾崎が出てこないもんだから、オレたちはあせってたんだ。部屋の外から何度も彼を呼んだんだけど、応答がなくってね。ぎりぎりのところまで待ったんだけど、どうやらおかしいということになって、強引に部屋へ入ったんだ。そうしたら……」  尾崎のバックバンドのメンバーの一人、Z氏は深いため息をついた。そうして小さな声で、しかしハッキリとこう言った。 「薬で、ぶっ倒れてた」 「薬?」  私は、自分の脳ミソが蒼ざめてゆくような気持ちになった。尾崎の、血色の悪い蒼白い顔や落ち着きのない指先、小刻みに震える背中や潤んだ瞳が思い出されては脳裏をよぎった。 「アイツ、薬のたぐいって好きだったんだよ。シンナーとかさ。他にも薬関係は全部やってたんじゃないかな。覚醒剤は、たぶんニューヨークで覚えたんだろうな」 「覚醒剤だったんですか?」 「たぶん、ね」 「そのこと、知ってたんですか?」 「確証はないさ。実際にブツを見たわけでもないし、使ってるところも見たことないからわからない。でも、アイツの行動とか仕種を見てたら、ある程度は推測してわかるじゃない。いや、わかるよ、はっきりと」  声をひそめてZ氏は言った。眉を寄せて口をとがらせ話しているのが手に取るようにわかる。私は、事の重大さをやっと理解し、しばし沈黙してしまった。そうして、十八日前に初めて見た彼のステージを思いおこした。 ■全身を覆う疲労の表情  それは九月十日、神戸のステージでのことだった。ぐつぐつと煮え立つシチューの鍋の中にいるような感覚だった。客席は、待ち続けたファンの熱気で今にも窒息しそうだった。立ち見席もぎゅうぎゅう詰めで、身動き出来ない。まわりの人の肌がじかに触れてくる。したたる汗が、気持ち悪い。  突然、活動停止を宣言してから一年九ヵ月。ファンは、食い入るように尾崎のステージを見つめていた。両手を胸のところで合わせ、祈るようにじっと立ちつくす少女たち。尾崎の激しい動きに合わせ、一緒になって踊りながら歌っている少年たち。 「オザキーッ、カッコイイゼッ」  客席のあちこちから「オザキコール」が飛び交う。それに対し、いちいち腰に手を当て「よろしい」とうなずく尾崎。 「ニューヨークでさぁー、とっても怖い目にあったんだよ。街を歩いていてさ、とんでもない大男ににらまれたんだ。『ヤバイ』って思ったんだ。でもさ、オレってさー、ほら、空手やっててさー、少しは体力と力には自信があったりするんだよなー」  ニヤリと笑って尾崎はそう言うと、わざとマイクを突き立てて自分の鼻を高くし、まるで「自慢するなよー」と言ってくださいといわんばかりにステージを歩き回った。 「別に自慢するつもりなんて、ないんだよー。自慢なんて、してるわけじゃあないんだよー」  なおも尾崎は、しつこいほどに上を向いて、マイクで高くした鼻を見せびらかしながらステージを闊歩する。客席から大きな歓声と拍手があがった。 「だけどさ、やっぱり命がおしいから、逃げちゃった。だって、こーんな大男だったんだよ。いくらオレでも無理だよー。一目散に逃げちゃいましたっ」  そう言って背を丸め、両腕を素早く前後に振って走るフリをしてみせた。その姿がなぜか滑稽で、客席は笑いの渦にまかれた。彼は、満足そうにうなずきながら、また転げ回ってマイクスタンドを倒し、「行けっ、オザキー」という声とともに叫び、吠えた。 「ステージ、どうでしたか」  その日の夜、ステージを終えた彼は、激しいステージとはうって変わった弱々しい表情で私に尋ねた。ソワソワと落ち着きがなく、疲れがからだ全体を薄い膜になって覆っているようにも見えた。年齢がわからなくなるほど、彼は老けて見えた。  彼の中で何かが大きくバランスを崩しているようだった。 「とっても良かったですよ」  そう言うと、彼は怒ったような顔をして私を見た。 「ダメだったよ。全然、ダメ。これじゃあ、ダメ。せっかく見にきてくれたのに……ごめんなさい……」 「どうして謝るんですか。私は今日のステージ、初めてですけど、とても感動しました」 「そうかなぁ……。感動……どこが? ねえ、どこに感動したんですか」  私は一瞬ためらった。人生に疲れ切ったような、諦めたような、そんな気配を身体中に染み込ませていた彼の存在そのものの危うさを、いきなりドンと提示されて一瞬たじろいだ。「彼は厳しい」というささやきが、遠くから聞こえたような気がした。 「感動した直後というのは、冷静に物事を分析して『こういう理由だから、こうでした』なんて言えません。少なくとも私はそういう人間なんです。だからたぶん、今はとても興奮して、とても感動しているから、その理由をうまく尾崎さんに伝えることができないんです。それにはまだ、『どうして感動したか』という理由をゆっくりと考えて、私の内面で咀嚼する時間が必要なんです。でも、本当に心から感動したという事実だけは伝えられると思いますけど……」  私は「ああでもない、こうでもない」と思いながら、ひとつひとつ言葉を選んで話そうとした。彼は人の心の底をのぞき込むような澄んだ瞳で、私の言葉のひとつひとつにうなずいていた。彼はしばらく黙っていたが、何かを思い直したのか、それとも考えるのが面倒になったのだろうか。頬をゆるめ、白い歯を見せた。 「どうも、ありがとうございます。今度、また絶対に見にきてください。絶対ですよ。それで、そのときに、また感想聞かせてくださいね」  彼は、はっきりとした口調でそう言った。そうして、兎のようにピョコンと頭を下げて、楽屋の奥へと消えていった。白いTシャツの輪郭だけが、私のまぶたの奥にヒラリと鮮やかに残った。 ■歌と現実の区別さえもてず  疲れているようではあったが、神戸公演のあとも順調にツアーをこなしているものとばかり思っていた。新潟公演の直前に楽屋で倒れたという電話が入ったのは、そんな矢先だった。 「少し不思議な仕種はあったけれど、でも覚醒剤でヘロヘロになるほどだとは思いもしませんでした」  私は気の抜けた応対を繰り返した。そして考えた。Z氏の言うとおり、尾崎はドラッグに、かなりの興味を持っていたのかもしれない、と。  彼の歌には実際「ドラッグ」がたくさん出てくるし、彼がデビュー翌年に発表した『誰かのクラクション』という短編小説の中でも「ドラッグ」が頻繁に出てくる。たとえば『Teenage Blue』という曲では、 「ドラッグにチョコレート そして Rock'n'Roll 足元に舞う風のように」  とあるし、『彼』では、 「水たまりのぞきこみ 闇をなげた 無口にならべた Drug」  とある。『Freeze Moon』では、 「彼女は今夜も ドラッグにいかれて 昔みたいなドラッグ・クィーンになろうとしている」  とあり、『Driving All Night』では、 「街のドラッグにいかれて 俺の体はぶくぶく太りはじめた」  とある。そして『誰かのクラクション』の一節には、 「彼にとって こんな嫌でどうしようもない気持ちは 行儀よく二列に並んだピンク色の上物のドラッグそのものなんだ 最高の気分だった」  とある。それを発見したときは、ただ単に「この人の歌詞や文章の中には、やけに『ドラッグ』が多く出てくるんだな」と思っただけだった。  ロックンロールにドラッグ。「そうであろう姿」というのを、彼は単になぞっただけだと思っていた。それを、歌や文章にして少し格好つけているだけだと思っていた。ところが、実際に覚醒剤を使用していたとは。しかも、腰が抜けてしまうほど深く染まっていたとは……。  歌の世界と現実の生き様を区別しているアーチストが多い中、尾崎豊という人間は、その区別さえ持てずに、どこまでも「尾崎豊」として生きなければならなかったのか。そうだとすれば、何て不幸せなんだろう。私はそう思いながら、神戸で見た、尾崎豊のチケットをかたくなに握りしめて一点を見つめ続けていた群衆を、ふいに思い出したりした。  Z氏の言うように、やはり彼は覚醒剤をニューヨークで知ったらしい。そのときの経緯を、彼は後に自分でこう綴っている。 「六年前の今頃だった。俺が二十歳の時だ。何もかもが分からなくなり始めた頃だった。  今思えば、時間が俺の思いと違った所で蠢き流れていたということなんだろう。俺はどんどんと孤独になっていった。取り残されてゆくようだった。それに耐えてゆくこともその頃の僕の答えにはならなかった。何故だろう……。答えは簡単だ。新たな孤独、新しい苦しみが押し寄せてきたことに気付かなかったからだ。時代はひとつの叫びを生み出す、そしていつも足りぬ平和を追い求めている。  声は届かなくなったようだった。奥深い森林の中で独り、俺は知る限りの言葉を尽くして叫び続けていたが、目の前を濃い霧に覆われ、行く先を無くしてしまった。出来ることは行くことというそれだけだった……。誰にも皆自分の道があるという。俺には俺の運命という奴が待ちかまえていた」  以上が、彼がニューヨークへ旅立つ前の状態だったらしい。「行くこと」とは、他でもない、彼がニューヨークへ「行くこと」だったらしい。彼はいったい、ニューヨークに何を求めたのだろう。「逃げ場」だったのだろうか。「行く先をなくしてしまった」彼には、ニューヨークだけが一つの灯だったのだろうか。とにかく、彼のニューヨークでの生活が始まった。 ■「ハブ・ア・グッド・デイ」 「六年前ニューヨークへ行った。マンハッタンで一年暮らした。観光客に混じって華やかなミッドタウンでホテルの不味いハンバーガーを一ヵ月食べ続け、その後ダウンタウンに移ってN・Yカレッジの若者とジャンキーに混じってダウンタウンで暮らし始めた。けれどホテルは最悪だった。シングルベッドにシャワーだけのバスルーム。冷蔵庫はない。生温い缶ジュースにポテトチップスを頬張りながら、壁に張りつけたニューヨークの地図を見つめていた。  そして街中あちこちを歩き回った。教会や公園には浮浪者がたむろしている。勿論太陽の日差しの中には愛を語り合う恋人達もワイシャツ姿のヤッピー達もいる。ピザやホットドッグやシシカバブを頬張り缶ジュースを飲んでいる。晴れた太陽の日差しは皆に優しかった。  夜になるとジャンキー達の奇声が聞こえる。サイレンが鳴り止まない。その頃ちまたではクラックという新しい麻薬が流行っていた。ピュアなコカインの合成物質らしい。突然、凶暴になるとかいう噂が流れていた。  雨の日の街を歩いた。教会を横切ると段ボールにくるまった浮浪者が、教会の壁に寄り添うように独りぼっち雨に濡れそぼっていた。ニューヨークの雨は霧を煙らせ、人と人を寄せつけないようにしている。教会の壁に寄り添って、新聞紙にくるまって眠る、目覚めることを知らない失業者や浮浪者とジャンキー達は似ている。街からはみだし這い上がれない。それでも這い上がろうと必死になっている。生きるために。  ブロードウェイやウォール街のヤッピー達だって落ちこぼれないように必死さ。皆這い上がろうとしている。皆、瀬戸際を歩いている。  この雨の中では誰もが一人きりだ。そして太陽の日差しは優しい。マンハッタンはそんな街だ。  マンハッタンに住んで四ヵ月目に、ようやくアップタウンの 96St.に安いアパートを見つけた。ベッドルームにリビング、キッチンに冷蔵庫までついた理想的なアパートだ。入口にはガードマンまでちゃんといる。十九歳のロシアから亡命してきた少年だった。気さくで笑顔の素敵な大男だった。とても十九歳とは思えない。  そのアパートには他にも亡命してきた人々が大勢いた。中国人や韓国人や俺の知らない南の小さな島から来たという少女もいる。皆グリーンカード欲しさに働いているのだという。その頃以前からアメリカの入国管理が厳しくなってきていると皆は口を揃えて言う。だからグリーンカード欲しさに偽装結婚している夫婦もいた。  アメリカで手っとり早くグリーンカードを取る方法にイエローキャブの運転手になるという手がある。それもコネがなくちゃ難しいらしいが……。  アパートは 96St.のリバーサイドドライブとウェストエンド Ave.の間にあった。アムステルダム Ave.とブロードウェイとの間には地下鉄の駅もあった。  ブロードウェイ沿いには韓国人の経営するデリカテッセンがあった。デリカテッセンは韓国人が経営する店が一番多い。バドワイザーとチョコミルクと林檎と卵とパンを週に一度買い出しに行った。  そのデリカテッセンのレジを打つ御婦人とたまたま地下鉄の中で出会った。俺は銀行に行くところだった。彼女は買い物帰りだった。彼女がウォークマンを聞いているので俺は、『何を聞いているのですか』そう尋ねると、なまりのある英語で喋りながら俺にヘッドホーンを手渡してくれた。韓国語のブルースだった。俺の好みじゃなかったけれど、しばらくその音楽に心を開きすぐにヘッドホーンを返して、微笑んでいる彼女を見つめながら言葉を探した。 『これラブソングですか』  すると彼女はこう答えた。 『ラブソングじゃないんです。でもラブソングに似ています。夢とか希望とか清らかな心とかそんなものを願っているという歌なんですよ。気に入りましたか』 『えっ、えぇ……。ブルースですよね』彼女がその言葉に口を黙らせたので、俺は慌てて次の言葉を探した。 『ニューヨークへ来てどれくらい経つんですか』ニューヨーカーにはこの質問が一番身に沁みる。 『八年です』 『ニューヨークは好きですか』俺は自問自答しながらそう尋ねた。彼女は黙って俯いたまま何も答えなかった。俺自身ニューヨークが好きなのか嫌いなのかさっぱり分からない。  カナル St.という駅で彼女は下りる間際俺にこう言った。ハブ・ア・グッド・デイ・アンド・ドリーム。 『ユー・トゥー』走り出した地下鉄は、彼女をマンハッタンという霧の中に隠してしまった。  その後デリカテッセンに行った時に彼女に挨拶すると彼女の旦那さんに睨まれた。そしてその次の日からその店で彼女の顔を見ることは無くなった」  彼のニューヨークでの日常は、そんなふうに過ぎていったらしい。ところがある日、彼のその後の運命を大きく左右する事件に出会う。彼の神経を少しずつ蝕み、二度と健康的な精神状態を取り戻すことが出来ない程、心身共にダメージを与えた「白い粉」。それは彼にとって、あまりに危険な運命のカードだった。しかし彼は、その運命のカードにトントンと背を叩かれ、おそるおそるふり向いてしまったのだ。いや、もしかしたら彼のほうから、その危険な運命のカードを選んで飛び込んだのかもしれない。いずれにしろ、彼はそのカードに触れてしまったのだった。 「一人きりの生活は逃げ場がない。マンハッタンの墓場の様な大きな公園セントラルパーク。殺人も起きれば、何でも起こる。昼間は賑やかな公園も、夜になれば寄りつく奴の方が珍しい。とにかく太陽の下に人々は集まるのだし、暗くなれば公園はまさしくジャングルになる。アニマルな連中のためのジャングルだ。アニマルな連中はファックに飢えている。ファック・ユー。そしてそいつらは言う。ファック・ユー・トゥー。  そこで俺はプエルトリカンのドラッグディーラー達に襲われた。いきなり銃を突きつけられた。マリワナ、コカイン、クラック、ヘロイン、阿片、何でもやらされた。ぶっ倒れながら一ヵ月過ごした。何のためなのかは分からなかった。覚えているのは車に押し込まれたところまでだ。そしてそれからは普通の空気を吸うより煙を吸う量の方が多かったし、飯の代わりに麻薬を食べていた。  街の音が何処かから聞こえたが何なのかは分からない。窓から見えるのは小さな街角だった。一ヵ月後彼は俺の財布を持って消えた。彼と何もかもが突然消えた。  やっと目覚めたのかもしれない。よく分からない。ただまだ呆然としていた。このまま死ぬのかもしれないな……。そんな気持ちになりながら俺はそのアパートの階段を下りた。外は郊外の小さな町だった。まるで二日酔いだ……。一ヵ月の間死んでいた俺にとって語るべきものなど何も無い。通りがかりの人に駅を尋ねもしなかった。  俺のポケットに10ドルあったのは幸いだった。ようやく駅を見つけアパートへ帰ることが出来た。それがなかったら歩いて帰るはめになっただろう。  地下鉄がやけに揺れた。地下鉄の揺れをこんなに惨めに感じるのは今まで無かったことだ。点いたり消えたりする地下鉄の明かりの中で俺は黙ったままでいた。俺はその揺れの中で考えた。俺は一体何になろうとしているんだろう……。  96St.の雑踏も気にはならなかった。ただ走りすぎてゆくバスに書かれた、You get the power. I love N.Y.という言葉がとても気になった。  それから三日後日本に帰ることにした。大学ノート五冊分も書いた詩や走り書きの一番最後の言葉……。  ──昨夜眠れずに失望と戦った。昨夜眠れずに欲望と戦った。──  それと一緒にナイフの絵が書かれてあった」  運命のカードは、弱い彼の心につけ入り、背中に張りついたまま日本にまでやってきた。そうして彼の様子を背後から常にうかがい、とうとう新潟県民会館の楽屋で、彼を虹色の逃避行へと誘い出した。 ■白い粉と化した運命のカード 「東京へ戻ったら、危ないと思ってたんだ……」  Z氏が、力なく言った。 「どうしてですか」 「地方へ行ってる間は、尾崎は僕たちの目の届く範囲で行動するでしょ。だから彼としても、そんなに簡単に覚醒剤を使ったりできないんだよ。しかも地方ライブのために飛行機で移動すると、覚醒剤を持っていくことができない。X線で、即見つかっちゃうからね。でもね、車や電車で移動だったりするとヤバイんだよ。だれもカバンの中、調べられないでしょ。で、東京へ戻って自由に行動できちゃうと、僕たちも追いかけられなくなる。彼が何をしてるか、途端にわからなくなる。先週はツアーの谷間でさぁ、ちょうどレコーディングで東京へ戻ったんだよね。だからイヤーな予感がしてたの。そしたら、これだもの」 「それで彼は今、どうしているんですか」 「東京へ運ばれたよ。意識もなくって、ふらふら。危ないよ、あれ」 「入院……ですか」 「さあね。だとすれば、精神科だろう。まだ、はっきりとしたことはわからないけれど。でも、早く入院させないとヤバイんじゃないかな」 「開演を待ってた新潟のファンの人たちは、どうしたんですか」 「待ちに待って、それで場内アナウンスの『本人急病のため』で、パーだよ。かわいそうに。とにかく、また新潟だからね。しかも、同じ新潟県民会館だよ。これ、きっと何かあるよ。これで二回目でしょ。二度あることは三度あるっていうからね」  Z氏は、絞り出すようなヒソヒソ声で言った。部屋の外は気味が悪いほどシンとしていて、初秋の風が窓を静かに叩いていた。  新潟県民会館といえば、Z氏の言うように以前にも一度、尾崎は倒れている。  一九八五年十二月二十六日。その日の新潟では、後に編集され発売される予定のビデオのため、リハーサル風景から本番に至るまでの撮影が行われていた。そのため、尾崎はかなり緊張していたという。胃腸も壊していたらしく、体調の悪さと精神的な緊張が重なり、彼は本番で『路上のルール』を歌っている途中、ステージに倒れこんでしまった。  マイクスタンドが転がり、それに並行するように、尾崎の身体も転がった。スタッフは一瞬、「いつものことだ」と思ったという。なぜなら彼は、マイクスタンドを蹴飛ばし、ステージを転げ回り、はいつくばって歌うのが常だからである。全身全霊を捧げる。それが彼のスタイルだ。ところが今日は様子がおかしい。マイクに手をのばそうとした彼の腕が、宙に浮かんだと思った瞬間、パタリとステージに落ちた。顔面が蒼白である。歌えない。ただ口を金魚のように動かしているだけだった。 「おい、尾崎が倒れたぞっ!」  マネージャーとスタッフの一人がステージに飛び出し、両脇から彼を抱きかかえる。急いで楽屋へ連れて行く。 「冷たいおしぼりを持って来い!」 「急げっ!」  尾崎は冷たいおしぼりで顔を拭かれた。苦しそうに胸をはだけ、洗面器を両膝に挟んで顔を突っ込む。まわりでマネージャー以下、スタッフが心配そうに尾崎の様子をのぞき込んでいた。  それから約二年後の一九八七年九月二十八日。同じ新潟県民会館で、今度は観客の前に姿さえ見せることができず、彼は楽屋の床に崩れ落ちた。  それは、運命のカードが「白い粉」に化けた始まりでもあった。 [#改ページ]   第五章 いくつ目かの神話  二度目の復活ツアー途中、新潟県民会館の楽屋で倒れた尾崎豊は、その三日後の一九八七年十月一日に、12インチシングル『核(CORE)』をリリースした。しかしこのとき、本人は覚醒剤中毒症状のため精神病院に強制入院させられていた。加えて肝臓や胃腸の病気も併発していたらしく、そちらのほうの治療も行っていたという。 「手足をベッドに縛られて、大声で吠えてるって噂がたっている。そうとう苦しんでいるみたいだよ」  最初に「尾崎倒れる」の連絡をくれたZ氏が、それから一ヵ月ほど後に、尾崎の様子をそんなふうに伝えてきた。 「いったいどこの病院に入院しているんですか。捕まったりしないんですか」 「どこの病院なのか、僕たちも知らないんだよ。見舞いにさえ、行かせてもらえない。知ってるのはたぶん、両親と事務所の社長、それにマネージャーぐらいじゃないかな。いや、マネージャーは怪しいな。知らないかもしれない」 「そうなんですか? それで、そこではどんな治療を受けてるんですか。ベッドに縛りつけられてるなんて、尋常じゃないですよね」 「そりゃあ尋常じゃないよ。そもそも覚醒剤を使うこと自体が、尋常じゃないんだから、治療だって尋常ですむわけがないよ」  Z氏は笑うように言った。私は自分が「尋常」という言葉を使ったことを少々反省し、「そうですね」と照れ隠しのために笑った。Z氏は続けた。 「胃の中を洗浄したりして、身体からクスリを抜いたりするらしいんだ。僕もよくわからないんだけど」 「それで、よくなるんですか」 「さあ、ちょっと僕にはそこまでわからないな。ただ一つの救いはね、どうやら尾崎は注射器は使ってなかったみたいなんだ」 「え……。それなら、どうやって……」 「コーヒーに溶かして飲んでたらしいよ」  そういえば以前、彼と電話で話したとき、受話器越しにカチカチというグラスの音がたえず聞こえていたことを思い出した。あれが、もしかしたらそのコーヒーのグラスだったのだろうか。「お酒を飲んでいるの」と聞いた私に対し、彼は「違うよ」と答えていた。そうして、しばらく私たちは「優しさの定義」について話していたが、徐々に彼は間延びした口調に変わり、意識が朦朧としているようだった。 「優しさっていうのはね、残酷の裏返しでね、それだから……残酷な優しさの罪は大きくて……」  やがて彼は受話器を持ったまま、小さな寝息をたてて眠ってしまった。私は、彼が睡眠薬でも飲んでいるのだろうと思った。 「疲れているんだけど、でも、眠れないんだ」  そのとき電話で、そう漏らしていたからだった。  受話器を切ろうとすると、彼の部屋の鍵を開ける音がふいに聞こえ、床を踏みしめて彼に近づいてくる音がミシミシと響いた。紙袋を広げる音や、彼のグラスを持ちあげる音、人が動き回る気配が伝わる。そうしてふいに、「もしもし」という男性の声が聞こえてきた。あまりに突然のことなので、私は一瞬声がでなかった。返答がないことを確認すると、相手は無言のまま、乱暴に受話器を置いた。「ツーツーツーツー」という音だけが、私の耳にこだました。  彼の部屋は、その当時、実家の埼玉県から離れ、東京都目黒区内のマンションにあった。 ■死ぬために生きるような暮らし 「どうしてコーヒーに溶かして飲むことが救いなんですか」 「注射器で打つと、直接血液に流れて、直接作用するから中枢神経まで侵して脳がおかしくなるんだって。それで廃人になっちまうんだよね。そういえば『セックス・ピストルズ』のシド・ビシャスが死んだり、『カルチャー・クラブ』のボーイ・ジョージが廃人寸前にまでいったじゃない。だけど、コーヒーに溶かして飲んだりする方法は、効き目が遅くて、あまり直接的に激しく作用しないみたいだよ。よくわからないけど、そういう噂なんだ」 「でもコーヒーに溶かして飲んだとしても、多量に服用したら、結局は廃人になっちゃうんじゃないですか。よくわからないですが……」  お互いに、よくわからないを連発しながら、白い壁に囲まれたベッドの上で、手足を縛りつけられているであろう「尾崎豊」を想像していた。ファンの知らない「尾崎豊」がどこかの精神病院で存在し、その彼はベッドにつながれ苦しんでいる。「自由」を叫び続けた男が、「自由」を失い、冷たいベッドの中でもがいている。しかしそれさえ、彼は芸の肥やしにしようとしているのかもしれない。『核』で「死ぬ為に生きる様な暮らしの中で」と歌ったように、彼にとって「生きる」ということは「死ぬ」までのモラトリアムだったのかもしれない。彼にとっては、それだけ危険で、「命を張る」ことだったのかもしれない。  きっと彼はまた、「薬物中毒」の自分を聴衆の前にさらけ出すことによって、一つの「伝説」を作ることになるだろう。それはどんな形であるかはわからない。「自分の弱さ」か、「ある一つの闘い」か、「興味ある試み」か。彼が「伝説」という表現方法を嫌っているにしても、まわりがそれを「伝説」といえば、それは「伝説」として語り継がれてゆく世の仕組みがある。そして彼は血肉を削り、「死ぬために生きるような暮らし」を学習している途中であり、その意味を伝える時期が必ずやってくることを彼と同様、私も予測していた。いや、それは一種の「期待」と呼ぶべきかもしれない。 「また、何か情報が入ったら連絡するよ。とにかく僕たちとしても、いつ復活できるかわからない尾崎だけを、ずっと待ち続けていることは難しいからね。本当は状況が許す限り、彼を待ち続けたい気持ちでいっぱいだけど……」  Z氏は寂しそうに声の調子を落とした。彼らスタッフは、いつ尾崎が倒れるかわからないことを前もって予測し、ツアーが途中で中断されたとしても「ギャラ」だけは保障してもらえるように事務所と交渉し、事前にそのように取り計らってもらっていたという。それだけ今回のツアーには、「危険な予感」が満ちていたのだという。 「仕事が途中でボツになっちゃったら、僕たちとしても困ってしまうからね。それぞれの生活の問題とかもあるしさ。だけど何より、音楽家にとって仕事をしていない状態というのが一番辛いね。尾崎とあんなに激しいステージをしてた後だからかなぁ。まだ、『尾崎ボケ』が抜けなくて困ってるんだ」  尾崎のツアーが中断されてから、メンバーはそれぞれの仕事先を自分で見つけたという。何よりも結束が固かったバックバンドは、いまや散り散りバラバラになってしまった。尾崎の復帰のめどが、まったく立たないからである。 ■アイツといる限り永遠に青春が続く 「僕たちのバンドはさ、最高のノリでステージをこなして、どんなアーチストよりも尾崎豊をもりたてていたと思っているよ。どこにも負けない。そんな自負が、だれの胸にもあるさ。僕たちは、本当に尾崎を愛してるんだから」  Z氏の言葉に、力がこもってきた。ひときわ声が大きくなる。ムキになっているような気もする。だれというわけではないが、少しでも「尾崎豊」と接触したことのある人間は、自分の中で育ってしまった「尾崎豊」を熱く語りたがる。人が何と言おうと、自分の中で暖めた「尾崎豊」が一番正しく、一番本物のような気分になる。それぞれの「尾崎豊」を語るとき、人は皆、真面目で一所懸命だ。そして、自分だけが育てた「尾崎豊」像を否定されたり、もしくは拒否されたり笑われたりすると、ますます必死になって「尾崎豊」を語ろうとする。それでも相手に受け入れられないとき、自分の中の「尾崎豊」を汚されたような気分に陥って失望する。もしくは「あんなガキに、こんなに入れ込むとは!」と嘆くふりをして照れ隠しをする。 「それは、アーチストとしての尾崎を愛しているのですか、それとも人間・尾崎豊としてなのですか」 「アーチストとしての尾崎豊だね」  即座に答えが返ってきた。 「それは、いったい彼のどういうところですか」 「たくさんあるけれどね。たとえば、これだけ燃えるステージをさせてくれる、つまりこちらの力をプラスアルファー出させてくれるアーチストって、僕にとっては尾崎だけなんだよ。アイツのパワーはすごいよ。まさに完全燃焼。だから、こっちまで本気にならざるを得ない。『ビジネス』とか『適当』って言葉が、どこかにふっ飛んでしまうんだ。目が覚めるねぇ。それまで『何、偽善者ぶってんだよ』って思って聴いてたアイツの歌の内容が、『ああ、本当なんだな』って伝わってくるんだ。一緒のステージに立つ人間にまで、歌の内容を本気になって伝える力のあるアーチストって、すごいことだと思うよ。他にいないんだ。それにね、何より歌がうまい。素晴らしく歌がうまいんだ。ほれぼれするよ」  Z氏は、クラシック畑出身である。それがなぜ、尾崎の音楽世界へと向かったのかはわからない。ただ、尾崎の並外れた歌唱力に度肝を抜かれたことは事実のようだった。 「言葉が明瞭でしょ。歌詞カードなんて見なくたって、全部が頭の中へ入ってくる。日本語が正確なんだよね。彼が言葉を大切にしているというのが、嘘じゃないってわかる。他のアーチストは、どれもこれも歌がへた。もちろん、僕の知らない人で歌のじょうずなアーチストはいるかもしれない。だけど知る限りにおいてはさぁ、一番基本的な発声どころか、正確な日本語さえ使えないでしょ。ノリのいいメロディーなんかでごまかしてさ。とてつもない音痴だって、はやればミリオンセラーになったりする。バカげてるよね。それを思ったら、尾崎の歌唱力は、最高に評価されてもいいはずだよ。僕、実は内緒だけど、美空ひばりが好きだったんだ。でも尾崎は、歌の表現者として彼女を超えていると思うもん」 「美空ひばり」のところで少し驚いたが、私はZ氏の話に納得した。歌の内容やテンポによって、声や歌い方をがらりと変えている尾崎の歌声が、頭の中に甦る。ラブソングのときには、ささやくように優しく。何かに疑問をぶつけるときには、激しく、まるで別人のように声をつぶして歌う。  尾崎のアルバムが何度聴いても飽きないのは、ひとつひとつの歌によって、全部違った声で違った歌い方をしているからなのかもしれない。 「だけどね、やっぱりドラッグをやってからかな。アイツの素晴らしい声が、どんどん失われてゆく気がする。昔は簡単に出せてた音域が、少し苦しそうなんだ。『おい、どうしちゃったんだよ、オザキッ』って心配になるよ」  水分を含んだ重い風が、細く開けた窓の隙間から、そろりと忍び込んできた。Z氏の熱い心の吐露が、電話線を伝ってくる。 「もし、アイツがまた立ち上がって、僕たちと一緒に『やろうぜ』って、ひとこと言ってくれたら……いま抱えている仕事先の人には悪いけど、そんな仕事なんか放り投げて、一目散にアイツの元へ帰るよ。帰りたい、助けにいきたいよ。アイツじゃなきゃ、ダメなんだ。アイツといる限り、僕たちには永遠に青春が続くような気がしてね。熱い青春みたいなもんがさ。ずっと『十七歳の地図』を歌っていける。それも、全力疾走で。みんなそう思ってると思う。いつ、どんなときに尾崎に声をかけられても、いつでも尾崎の元へ帰れるように、僕たちは心のどこかで心構えを作ってる。そう、アイツとやるには相当の覚悟ってものが必要なことぐらい、知ってる。何があるかわからない。そんな危険なところも含めて、やっぱり尾崎の才能を認めてしまってるんだ。とんでもなく、憎いヤツだけどね。アイツだけが正しいわけじゃあないけど、だけどね。みんな、真剣なんだよ」  しばらく沈黙が続いた。Z氏は、まだ言い足りない「何か」を感じて、言葉を捜しているようだった。 「いやぁー、何か、妙に力が入っちゃったな。別にね、いいんだけど……。とにかくさ、そういうことなんだよ」  急に照れたZ氏は、冗談のように笑い飛ばし、 「じゃあ、情報があれば、また連絡するよ」  と言って電話を切った。  それから二ヵ月。いろんな立場の人から、たえず入ってくる「尾崎豊」に関する情報は、どれ一つとっても正確なものはなく、どれ一つとっても、それを確かめることすらできない状態であった。 「もうすぐツアーが始まるらしい」 「レコーディングが、もう始まってる」 「新宿のライブハウスで歌ってる姿を見たヤツがいる」 「実は、引退するらしい」  どれも信じ難いものばかりだった。ただ一つ、私が信用できる情報があるとしたら「尾崎は入院している精神病院を、何度も脱走しては捜し出され、また病院に押し込まれて脱走して……。そんなことを繰り返している。アイツのサイクルは一週間。一日目はドラッグを買いに行く。その後三日間は異常なほど機嫌がいい。次の三日間は超鬱状態で、暴言を吐いては暴れ狂う。とうとう一週間目、また覚醒剤を買いに走る。その繰り返しさ」ということだけだった。この情報でさえ、実際に見た人がいるわけでもなく、どこかから流れてきた噂に過ぎなかった。  尾崎豊に関する情報に何ら確かな手応えもなく、その年も暮れようとしていた。街にはクリスマスツリーが、色とりどりのネオンに紛れて白く浮き出ていた。まだ誰も、尾崎の運命のカードが「白い粉」に化けたことを知るものはいなかった。 ■二度目の裏切り  白い光がやわらかく差し込んでくる朝だった。一九八八年は明けたばかりで、正月気分の抜け切らない街の静けさが心地よい。私は一月九日付の新聞を読んでいた。社会面にざっと目を通す。その瞬間、私の心臓が大きく波打った。 「人気ロック歌手、尾崎豊 覚醒剤不法所持の疑いで逮捕」  私は、こめかみでドラム缶が鈍い音をたてて爆発したような衝撃を受けた。彼は病院から脱走したまま、自分の運命を「白い粉」一色に決定してしまったのだろうか。「白い粉」の描く虹色の幻想の世界に、本当の微笑みさえ奪われてしまったのだろうか。  私は「期待は裏切られやすい」という彼の言葉を、鮮明に思い出していた。「また、絶対見にきてください」と神戸でいった尾崎の言葉を信じ、そうして彼が新潟で倒れたために見に行けなくなってしまい、まんまと裏切られた一度目の期待。精神病院で完治してドラッグから立ち直り、再びステージに復帰して元気な姿を見せて欲しいという気持ちを、正月早々破られてしまった二度目の裏切り。 「期待は裏切られやすい」  私は、いまになって彼のこの言葉を身にしみて感じた。  その期待が一方的なものであると知りながらも、私は自分が裏切られたのだと思いたかった。しかし本当は、裏切られたのではなく、自分の期待が勝手に膨らんだ結果、破裂したに過ぎないということを、私は認めなければならなかった。そして本当は、無意識に相手を裏切ることは「誰のせいでもないんだ」ということを尾崎は伝えたかったのかもしれない。それどころか、意識的に裏切ることさえ「誰のせいでもない」ということを伝えるために彼が生きていたとするなら、それは本当に恐ろしくハードな生き方を彼は選んでしまったのだなあと私は思った。  街のスタンドにスポーツ新聞を買いに走った私は、交差点で行き交う車や人の流れに心を奪われた。きっと、彼の『Scrambling Rock'n'Roll』という歌がなければ、そんな風景にも心奪われることなどなく過ぎていただろう。コートにくるまり、背を丸めて歩くサラリーマンらしき人を見ると、自然に頭の中の記憶装置がチャンネルを合わせる。 「ごらんよ 寂しい心を閉ざして歩くよ Hard Worker 自分のくらしが一番自分を傷つけると泣いてる」  腰をくねらせ、顔を紅潮させて茹で蛸のような尾崎が歌いだす。 「君の恐がってる ぎりぎりの暮らしなら なんとか見つかるはずさ」 「奪いあいの街角で 夢を消しちゃいけないよ 見栄と偏見のふきだまり 気をつけて まっすぐ歩いてほしいよ」  などと吠えながら、私を励ます。そんな彼の言葉を知ってから、交差点を歩く人波が、本当に見栄と偏見のふきだまりに見えてきたから不思議だ。それまでは、そんなふうに他人を見たこともなかった。  人間は、常に別の角度から刺激を受け、たまには違った思考を自分の頭の中に組み入れることも必要だ。「ああ、こんな見方もあるんだ」「ああ、こんな考え方もおもしろいな」。そうして人は、ひとつ何かにつまずくたび、ひとつ学習する。それによって、心に幅を持てたりするはずだ。たとえそれが、たった一部の人にとっての真実であろうとも。  スポーツ新聞に、「尾崎豊」「覚醒剤」「逮捕」「引退」の文字が踊っていた。それによれば、尾崎は前年の一九八七年十二月二十二日に、すでに逮捕されていたと書かれている。埼玉県朝霞市にある自宅のトイレ内で服用していたところを家人に見つかり、見かねた家人が警察に通報したらしい。  当時の新聞は、更にこう報じている。 「体罰、いじめが横行する学園生活に対して、自立をテーマにした曲は中学、高校生の間に絶対的な信者が広がり、一気に浪人生や悩みの多い若者の『教祖』のような人気となった。たたきつけるような激しいメロディー、傷つきやすい青春をそのままストレートにぶつけるような詞にも人気があった」 「自分の体験に裏打ちされたメッセージ性の強い青春を歌って、屈折した青春を送る若者や、挫折したヤングに熱烈支持された」 「屈折した」とか「挫折した」というマスコミが勝手に推測した「枠」が、私には「気に入らない文字」として目に映る。実際、別に屈折も挫折も知らない人間だって、尾崎豊の曲を聴いているものなのだ。そもそも「屈折」とか「挫折」という言葉自体、いかがわしい。その言葉に、どんな定義があるというのだろう。反対に、そんな言葉でマスコミにくくられた尾崎ファンのほうこそ、いい迷惑かもしれない。私はそう思いながら、新聞を読み進める。  レコード会社移籍の件で、彼と確執の続いていた所属事務所の社長が、「こうなっては、もうやめさせるしかありません。本人も、もう歌うことはないでしょう」とスポーツ新聞にコメントしている。さらに「彼は曲作りでもステージでもトコトン自分を追い詰める性格でした。だから『絶対にクスリには手を出すな! 出したら負けだ!!』と言い聞かせておいたのですが……病気で休養しているとばかり思っていたのに、監督不行き届きでした」と語っている。それに続き「歌手・尾崎豊は引退することが決定的になった」と書かれていた。  尾崎豊は後に、覚醒剤使用に触れてこんな文章を書いている。 「覚醒剤に頼り始めてからすぐにコンサート中止、精神病院入退院の繰り返し。心が傷んでいた分だけ精神の錯乱も酷《ひど》かった。そして覚醒剤所持使用で逮捕された。  どんどんと何かが失われていった。それは社会というものへの帰属」  ということは、彼は社会への帰属を望んでいたということになる。彼は、もしかしたら必死になって、失くしてしまった「尾崎豊」に戻ろうとしていたのかもしれない。失くしてしまった彼自身の「尾崎豊」。それは、アーチストとして、誰かがそれぞれの胸に刻みつけた個人個人の「尾崎豊」ではなく、誰にも知られない自分だけの尾崎豊として。たとえその状態に戻れなくても、少しでも近づけたらいいのに、と思っていたのかもしれない。  彼は、驚くほど不器用だったのだ。アーチストとしての「尾崎豊」と、平凡な一人の青年としての「尾崎豊」の両方を、彼の肉体と精神に共存させることができなかったのだ。アーチスト「尾崎豊」として存在するかぎり、彼は自らの命を削ってまでファンを納得させなければならなかった。それが「尾崎の価値」といわれていたし、だからこそ自分が「尾崎豊」として多くの人に愛されているということを彼は痛いほど理解していた。だからもし彼が、肩の力を抜いて平凡な歌を歌ったとしたら、「尾崎らしくない」。きっとそういわれるだろう。そういわれてソッポを向かれるのが、とても怖かったのかもしれない。彼は、哀しいほど愛に飢えていた。なのに彼は、だれの愛も、どんな愛すらも信じられずに孤独と闘っているように見えた。 ■オン・エアされないリクエスト  一九八八年一月。覚醒剤不法所持によって、彼は監獄の鉄扉の音に怯える毎日を余儀なくされるに至った。 「留置所で思った。俺の魂を捕まえるなんて出来ないさ。それより何で俺を騙した奴を捕まえない。  拘置所に移され考えた。結局この世は貧しいものと金を持った奴のどちらかにしかなれないし、なりようがない。捨てちまうか巧くやるかのどちらかだ」  彼は、自分のすべてを狂わせた原因に関し、誰も理解してくれない状態を憂いていた。『COLD JAIL NIGHT』で彼は、 「動機と心の病の上に罪名が被さる」「毎日毎日覚え込ませる繰り返す仕事に誰もが 先を争い真実さえ口にする余裕などない」  と歌っている。つまり、律儀な裁判所職員に、彼にとっての「真実」をいくら語ろうとしても、所詮無理なのだということなのか。 「裁判という台本を読む真の正義が始まる」「生き方を今削り取られて比べられている」  と皮肉る。人生の一瞬の過ちで、彼は永遠に罪を背負うこととなった。 「裁判の日だ。俺を騙し続けた本人がぺこぺこ裁判長に頭を下げていた。俺は心の中で叫んだ。  裁判長騙されるな。そいつが俺の人生を狂わせた人間なんだから、と。だが願いは空しかった。俺は実刑一年半執行猶予三年をいただいた。(実刑は懲役の誤り。著者注)  裁判の後で呼び出されこう言われた。 『俺はお前の隠していることは全部知っているんだ。警察に言われたくなかったら俺のいうことを聞け』完全な脅迫だ。でも何も隠し立てすることなんか無いさ。そこにはあんたもいたのだから。  別にコカインだろうがヘロインだろうがマリワナだろうが今となっては、そんなことはもう済んだことだ。それに禁酒法があったようにやがて時代も変わるだろう。薬物中毒で苦しんだ俺がこんなことを言うのは変だけどね……。酒だって飲みすぎればアルコール中毒になる。コーヒーだって飲みすぎればカフェイン中毒になる。コカインや阿片から作られるモルヒネは医学的には麻酔として用いられている。インドや他国ではマリワナ解禁のところもある。  だからといってこれだけは間違えるな。郷に入らば郷に従え、だ。でないと馬鹿をみるはめになる。馬鹿を気にして生きるほど世間は狭かないにしてもさ……。俺を見ろよ。全てはもろく崩れた。仕事も生活も何もかもが……」  一月九日の逮捕報道から二ヵ月。全国のレコード・ショップから、毎日七千セットずつ彼のレコードが消えていったという。全国のラジオ番組をはじめ、有線放送には、連日彼の曲に対するリクエストが殺到した。しかし、それは一度もオン・エアされることなく抹消された。  彼の曲を聴きたいのなら、自分の部屋で、自分の持っているレコードを回転させればよい。それなのに、なぜだろう。彼のファンは、決してオン・エアされることはないと知りつつも、彼の曲を公の場所に求めた。たぶんそれは「確認作業」の現れだったのだろう。 「尾崎は素晴らしいシンガーだ。これからも永遠に、すたれることなくオレたちとともに、オレたちの胸の中で存在し続けるんだ」  尾崎豊は法を犯した罪人である。だれもが罪人を批判するだろう。しかし一部を除き多くのファンは、それでもそんな弱い尾崎を、愛さずにはいられなかった。ファンはそんな自分の気持ちを確認したくて、公の場所に彼の曲をリクエストするという方法を取ったのだろう。覚醒剤で逮捕されたという結果だけで尾崎豊の世界を語るのではなく、それ以前の「尾崎豊」の存在を、ファンは示したかったのだろう。  尾崎豊が釈放された一九八八年二月二十二日。小菅の拘置所のまわりには、彼のファンが土手に何千人も集まり、彼の作った歌を歌って出所を祝った。それは新聞やテレビで大きく報道され、「教祖健在」と謳われた。  本人の意志とはほとんど無関係のところで、また「尾崎伝説」を作りあげてしまった尾崎豊。それは、数えることすら不可能な、いくつ目かの神話であった。 「社会的責任を強く感じてます。これからは、二十代の地図を描き続けていきます」  そう語った尾崎豊。彼は、その決意とは裏腹に、肉体的にも精神的にも最悪のコンディションのまま、たった一夜かぎりの復活ライブの準備へと入った。 [#改ページ]   第六章 最後方からの風景  もう、何時間そうしていただろう。一瞬のうちに、四時間が飛んでしまったような気がした。そのうちに、私の鼓動は急に加速し始め、目を閉じると、一つの映像が浮かんできた。私は考えた。  病室の無表情な壁は、尾崎豊に何をささやいたのだろう。胃を洗浄して、ドラッグを身体から抜く治療は、彼にどんな心の現象をもたらしたのだろう、と。私は翌日、九月十二日に行われる東京ドームでの復活ライブを前に、落ち着かない夜を過ごしていた。  彼が新潟で倒れてから約一年。  逮捕報道から九ヵ月が過ぎていた。 ■世間知らずのオレだから  二月二十二日に釈放された彼は、まず六月二十一日に、八ヵ月ぶりの新曲『太陽の破片』をリリースした。その「昨晩 眠れずに 失望と戦った 昨晩 一晩中 欲望と戦った」という歌詞は、まさに彼がニューヨークから帰国する寸前に大学ノートに書いた、あの最後の言葉と酷似していた。B面は、『遠い空』という曲だった。「世間知らずの俺だから 体を張って覚えこむ バカを気にして生きる程 世間は狭かないだろう」と、のっけから体験そのものを歌にした彼の度胸に苦笑する。そう。彼は覚醒剤不法所持により逮捕、その後、裁判で有罪判決を受けた。そのことを歌っているのだ。 「裏切りを知ったその日は 人目も気にせずに泣いた」という彼の「裏切り」とは、いったい何を指すのだろう。裁判所に勤める兄に説得された父親が、警察に通報したことだろうか。それとも、彼が執拗にこだわっている所属事務所とのいざこざを指すのだろうか。それとも、いままで彼が見てきたすべてであろうか。いずれにしても、彼はその裏切りによって「泣いた」のだ。そして彼は、立ち上がってみせる。「情熱を明日の糧に 不器用な心を抱きしめてた」というふうに、不安定だけど力強く。暗い歌になりがちな、そんな歌詞を、快活なリズムに乗せて見事に歌いこなしていた。  その翌日の六月二十二日。大のテレビ嫌いと巷でいわれつづけた彼が、CX系テレビ番組「夜のヒットスタジオデラックス」に生出演したのだった。この、「大のテレビ嫌い」という彼のイメージは微妙なもので、実際の彼は結構目立ちたがりやの派手好み。テレビにだって大いに出演し、注目を浴びて自分の存在を大勢の人に認知されたいのだ。  しかし反面、彼に対して作られた「イメージ」にそえば、彼は「大のテレビ嫌い」にならざるを得ず、ファンが彼に期待するある種のポリシーというものを守り続けなければならない。その上、彼自身も目立ちたがりやの自分を否定し、軽蔑している部分も少なからずある。また、ライブで歌う場合と違い、客の反応がない、ただのテレビカメラの前で歌うことは、彼にとって非常にやりづらいものでもあった。そんなふうに、彼は心の中にいつも、相反する自己矛盾をたくさん抱えていたのだった。 「ご心配をおかけしました。素直な気持ちを曲に込めます」  頬を引きつらせながら彼はそう言って、前日にリリースされた『太陽の破片』を熱唱した。ジーンズにジャケット。シルバーグレイのシャツを着ていた。マイクスタンドに、すがりつくように歌う彼は本気に見えた。司会者は番組が終了するまで、彼の覚醒剤や執行猶予の身に関する話題には一切触れなかった。司会者の一人である俳優のS氏が、尾崎の出演とその歌に、やたら感激している様子が画面から伝わる。かなり、興奮しているようだった。番組に対する視聴者からの電話は三十本で、そのうち尾崎の出演に批判的だったのは一本だけだったという。  その後、彼は新聞や雑誌のインタビューを数本こなしている。そしてある新聞で、彼はこう語っている。 「街に氾濫している虚像に心を奪われてはいけない、本当のものをつかみたい、と歌ったはずなのに、聴き手は、そこにまた新しい虚像を見てしまった。その違いが僕にはプレッシャーであり、僕の中での歪みに変わっていった」  日常的なことを単に歌ったつもりの彼の曲の多くが、若者を取り巻くさまざまな社会現象と結びつけて論じられ、またたくまに「若者の教祖」「カリスマ」に祭りあげられた。そしてマスコミもレコード会社も、それを大いに利用したのだ。それはある意味で当然のなりゆきであった。なぜなら、彼の所属事務所の社長は、「尾崎豊」という「虚像」を売るために、あえて「尾崎豊」という「虚像」を作りあげたのだから。つまり社長のもくろみは、まんまと当たったというわけだ。しかし尾崎自身にとって、それは「何だか少し、違うんじゃない」という気持ちでしかない。なぜなら彼は、平凡な日常に埋もれている事柄を大切にしたかっただけなのだから。 「自分の足で立とう、という歌が、自分では立てない人のツエの代わりになるということがあると思う。病気になればお医者さんが必要だし、僕自身のツエになった曲もたくさんある。ただ、ツエにすべてを頼ってしまうファンがいたら、すごく危険だ」  彼は、特に自分がヒーローだともカリスマだとも思っていなかった。彼はよく、「僕が幸福であると感じた瞬間を分け与えてあげたい。そうして皆がその一瞬を同じように感じることができれば、それが僕の一番の願いなんだ」と言っていた。だから自分が書いた歌によって「救われた」という人がいたとしても、すべての他人が幸福になることが彼の願いである以上、彼自身がまず幸福にならなければならなかった。それは、病気になったときに使用する「ツエ」とは、やはり少し違う種類の幸福である。だから彼は、ファンの受け止め方と彼自身のあり方に、常に隔たりを感じて苦しんでいたのだろう。ただ、そういう彼の願いが正確に通じない以上、永遠に彼は歌い続けるしかないという使命感に急かされていたのは確かだった。 「今度のこと(覚醒剤事件)は自分自身をよく見直し、周りのことを見直すいい勉強になった。勉強というか、転機というか、節目になった。これまで僕は十代の地図をかいてきた。いつかは三十代、四十代の地図もかくだろうけど、今は二十代の地図をかいていきます」  彼は静かに、そうして言葉を選びながら語っている。 ■たった一日だけの復活ライブ  一九八八年九月十二日。東京ドームでの、たった一日の復活ライブ。  尾崎豊のファンは、どれほどこの日を待ち望んだことだろう。ステージで叫ぶ彼の姿に、どれほど飢えていたことだろう。きっとファンにとって、思いめぐらす内容はそれぞれ違っていたとしても、期待の大きさや深さという点では、さして差異はなかっただろう。  ドラッグなどという、マスコミには上等すぎる餌を与えたことで、彼は一般が「いかにも」と頷くロックシンガーになりさがってしまった。ロックンロールとドラッグ。あまりにも連想が簡単で、だれにでもその経緯が無責任に推測できる抱き合わせだった。 「作詞にゆきづまって」 「音を敏感に聞くため」  多くの人々の精神を、自己を破壊しながら提示してゆくという尾崎流の形式によって救いつづけてきたのが彼の「生」だった。しかし今は、その存在さえ無意味になってしまい、彼自身はファン以外の人々の格好の噂の種になってしまった。人によって真実はまちまちなのだということに気づこうともせず、結果だけにとらわれる世間があった。  廃人寸前の苦しみの中、崩れるようにしてレコーディングした12インチシングル『核』がリリースされたとき、「尾崎豊」とドラッグの関係が成立していないことを信じて疑わない、夢にもそんな関係を想像だにしない別の世界で、レコードを抱きしめてみる人々がいた。  あれから一年。彼のステージが東京ドームである。彼の叫びが流れる。彼が、また吠える。いったい、どうなるのだろう。五万六千人もの観衆の前で。  大阪に住む三十二歳のその女性は、レコードを抱きしめてみた一人である。東京ドームの五万六千分の一人になる予定でもある。国立大学を卒業し、地方公務員として役所に勤めている。彼女は、友人がたまたま聴いていた尾崎豊の『十七歳の地図』を耳にし、「人波の中をかきわけ 壁づたいに歩けば しがらみのこの街だから 強く生きなきゃと思うんだ」というフレーズに心を奪われた。三十歳のときのことだった。それからの彼女は、尾崎豊のアルバムを買いそろえ、彼の歌のとりこになってしまった。彼女は、言う。 「私は、いわゆる優等生として学校生活を送ってきました。だれからも文句をいわれたりいじめられたりすることなく、平凡に過ぎていった。そしてこの年まで、公務員という何の刺激もない、競争もない場所でのんびり暮らしてきた。そんなとき、尾崎の曲を聴いて、ひどく頭を殴られたような気がしたんです。そうして不安になった。もしかしたら私は、一所懸命生きてこなかったんじゃないかと……。もしかしたら、もっと頑張れたかもしれない。夢なんて叶うものじゃないと初めからあきらめていたけれど、もしかしたら夢を実現することより、追いかけること自体に意味があって、素晴らしさがあるんじゃないかと。人間が一番輝いているときというのは、そういう時なんじゃないかと。そう気がつくと、すごくショックだったんです。今までの私が死んでたみたいで……。  もっと、自分に可能性のある時期に彼の歌を知りたかったと残念でなりません。そうすれば、彼の教えてくれることに気がついて、私は自分の夢を追いかけていたかもしれない。もしかしたら、違う私になれていたかもしれない。もっと輝いていたかもしれない。そう思うと、せめて彼の歌を聴いて、今からでも一所懸命生きてゆきたいな、輝いていたいな、と思って。だけど、辛いですね」  彼女は、尾崎の書く詞に苦しみ始めていた。彼の生み出す言葉と言葉の結合、それはまるで、覗かれたくなかった部分を堂々と覗かれたようで、触れられたくなかった部分を鋭く殴られたようで、それでいて何とも心地よい、求めずにはいられない苦しみだという。 「こんな年齢で、とても恥ずかしい限りですが、どうしても尾崎のステージを見る必要に迫られて……それは、たぶんに自分勝手な必要性なんですが……とにかく、彼のステージを見なくてはならないと感情が叫んでいるんです。だから勇気をだして、初めて役所を休んで大阪から来たんです。これは、私にとって必要なことだと思ったから。いままで、役所を休んでコンサートへ行くなんて、考えてもみなかったのに……考えてみれば、だれかのコンサートへ行くこと自体、初めてなんです。何か、夢中になれるものが初めてできた感じなんです」  彼女の生活の上へ尾崎の吐き出すさまざまな言葉がのしかかり、そしてそこから脱出できずにいるのだという。彼女は、尾崎の歌う言葉にいちいち頷く。 「そうよねぇ」  朝、目覚める。カーテンを開けて空を見あげる。役所へ向かう車の中で、アクセルを踏む。平凡に見える仕事の場にもさまざまなドラマが展開されている。見なれた街の中にも気づかなかった風景がある。見落としてしまいがちな小さな物事を、尾崎の歌によって、発見したのだ。 「明日、やっと彼に会える」 ■「ひとつの過程」か「これがすべて」か  その日の東京の空は相変わらず灰色だった。何度も仰ぎ見ては、東京ドームを目指して歩いた。尾崎は紛れもなく、この街が巻き起こす妄想や、現実を見ようとして歌い続けていたことを思い出す。  私は深いため息をついて、彼を想った。  彼は、また開演直前にドラッグで腰が抜けたりしないだろうか。大きな大きな子供のような尾崎豊。彼がステージで転ぶところを想像する。大声で泣き出すかもしれない。「やーめた」などと言い出して、突然消えたりするかもしれない。「ごめんなさい」と、急に謝りだすかもしれない。  考えれば考えるほど、いろんな映像が浮かんでは消える。それは、何とかしてこの現状、つまり彼のライブに対する不安と期待と哀しみと、言いつくせないほどの恐怖。そんなものから逃れ、私自身を落ち着かせるための懸命な手立てだったのかもしれない。  巨大なドーム球場が見えてきた。五万六千人のファンが詰めかけると聞いていたが、なるほど若い男女の群れが、そのあたりを埋めつくしている。ポスターやパンフレットを大事そうに抱えて、いく人もの男女が行き交う。彼らのいきいきと輝いた、少し緊張気味の顔をながめていると、思わず「よかったね」と声をかけたくなって一人で苦笑した。  五時四十五分。私は少し焦りながら、指定の座席に腰を下ろした。そこは、一階席、最後方通路脇からの「彼」へのアプローチだった。ステージは、はるか遠い所に構えていた。機材だけが正確に置かれ、細い影を作っているマイクスタンドを見ると、主役のいないステージがひどく貧弱にも見えた。  次々と埋めつくされてゆく客席をながめながら、私の心も少し和む。隣の席についた少年が、ポップコーンを片手にパンフレットを熱心に読み始めた。前に座っている二人組の少女が、「もうすぐだね、もうすぐだね」と涙声でささやきあっている。  私の座っているまわりでは、圧倒的に男性ファンが座席を占めていた。彼らの多くは一人きりで、「尾崎豊」のパンフレットを食い入るように見つめていた。客席の後ろでは、腕章をつけた青年たちが必死になって座席案内を行っている。放射線状に伸びてゆく喧騒が、ドームの天井に高くこだまし、まるで滝壺の中に立って冷水に背中を打たれているような感覚にとらわれる。  六時を少し回った。  突然、場内の明りが落ち、今まで見ていた白い天井に、黒いシルエットがふわりと浮かびあがった。それは紛れもなく「彼」のシルエットだった。それに気づいた観衆が、うねりのような大歓声をあげた。その振動で、私の身体は小刻みに揺れた。  滝壺に吸い込まれてゆくような大歓声と、鳴り出したギターの電子音が、一気に身体中を通過する。肋骨が折れんばかりに響くその大音響が、「彼」の出現を歓待していた。  しばらくすると、天井の中の「彼」のシルエットが、微妙にうごめいた。観衆の歓声が、「ギャァー」という叫びに変わった。彼がスポットライトの先に、その姿を現したのだった。ギターを抱えて仁王立ちの彼のその姿は、やはり見覚えのある「尾崎豊」としての存在を、現実のものとして強烈に誇示していた。そして、それはとても大きくて、すべての対立しあうさまざまな自己の感情を包み込んで立ちつくしているようにも見えた。その姿は、歌い出したアップテンポの曲と不思議な不調和をもたらしていて、私の心はその光景に妙な感情の静まりを覚えはじめていた。  彼は、自分自身に押しつぶされてしまうかもしれないな。  何かに背中を押されるようにして、ハイ・ペースで歌い続ける尾崎をながめながら、私は静かな不安を隠し切れずにいた。  いったい彼は、この先何を主張し掲げてゆくのだろうか。歌うテーマが、内容が、抽象的になればなるほど彼は自分の中でもがき、苦しみ続けるだけのような気がする。彼が今まで作ってきた言葉の組み合わせを、彼自身の中で「ひとつの過程」と取るか、もしくは「これがすべて」と取るかによって、その先がずいぶん違ってくる。そんな気がした。  私は、座席の後ろに連なっている鉄パイプの上部を握りしめ、小指の先ほども見えない彼の現実の姿を見つめようとした。  その歌声は、隠された彼の感情を、救ってくれるのだろうか。  久しぶりの彼の声は、リハーサルのしすぎだろうか、かなり、かすれて喉の奥でくぐもっている。勢いと熱っぽさだけが、から回りしているようだ。それでもひとつひとつの言葉を大切に、抱きしめるように転がりながら歌う姿が、妙に痛々しい。叫びにも似たその歌声に耳を澄ませながら、私の感情は静まり返っていた。 「彼は、甘えるのが上手だな」  ちらりと、そういうフレーズが私の頭の中をかすめていった。 ■ドラッグで確かめる愛  現実の世界へ戻ってくるためには、まだたくさんの段階を経ないとだめだということはわかっていた。やけに神経が高ぶっていて、耳鳴りがする。しかしそれとは正反対に、一気に身体中の力が抜け切ってしまった後のような、極度の疲労も抱え込んでいた。  しかしやれやれ、五万六千人の東京ドームを脱出するために、とんだ時間をもぎ取られてしまった。かたくなに握りしめたチケットのしわを伸ばしながら、夢の中にいるように潤んでいた十一万二千個の瞳を、私は思い出していた。そのとき、ナイト・テーブル上の電話のベルがけたたましく鳴った。時計の針は午前二時三十五分を示していた。 「尾崎、どうだった?」  その昔、尾崎のバックバンドで働いていたB氏だった。尾崎の仕事を離れたB氏は、別のミュージシャンのバックバンドにいたため、そのレコーディングと重なり今日の復活ライブは見に行けなかったのだ。 「頑張っていたのは、痛いほどわかったんですけど」 「そうか、頑張ってたか……」 「だけどコーラスが今ひとつでしたね。女性二人と男性一人のバックコーラス。ドームだったせいもあるのかしら。確かにうまくいっている曲もありましたけど、女性の声が少しうるさかったですね。ヒステリックに響いてしまって尾崎の声が負けていましたよ。どうしても入れたいんだったら、少し抑えたほうがいいと思いました。でも、ステージで声をふり絞って歌う姿は、たった一つでいいと思いました。コーラスが『ウー』とか『ハー』とか色をつけると、何だか安っぽくなっていけませんね」  B氏は声をあげて笑った。 「安っぽい、ね。そりゃいいや。たしかに尾崎のステージでコーラスが入ると、チャラチャラしたショーみたいで気が抜けるね。それにしても、なんでコーラスなんて入れたんだろ。ちょっと意外だな。それで?」 「ステージの横にあった巨大スクリーンの映像が、歌とまったく一致していなくて奇妙でしたね」 「音のほうが、伝わる速度が遅いからね」 「だけど尾崎君……とても疲れ切ってる感じがしました。萎れた花みたい」 「アイツ、休んだほうがいいよな。だけどニューヨークは危ない。ハハハ。今度はニューヨークなんて、すかしたところに行かないで、日本の秘境みたいな場所で休んで、ゆっくり歌作りにでも励むほうがいいね」 「最後に、『傷ついているのは僕だけじゃない』みたいなことを言ってました。どういうつもりでそう言ったかは知らないけれど、本当にそう思っているのかなと思いました。今まで彼自身の存在がずいぶんいろんな人を救ってきたと思うけれど、だからといって、それが彼の存在する唯一の価値ではないと思うんです。だから、他人の人生まで背負い込んでしまって大変だなって思うんですけど……」 「アイツはね、そこにいるだけでまわりが傷ついてしまうってところがあってね。別に誰もアイツのこといじめてるわけじゃあないのに、一人で勝手に傷つくから、こっちも自然に傷ついたりするんだよ。そういうの、たまに会うといいんだけど、毎日会うやつは大変だよ。アイツ、極端な甘えん坊だから。相手が男であろうが女であろうが関係ないみたいなところはあるよ……。それで、どんな感じで始まったの」 「オープニングは『COLD WIND』でした。のどの奥で声がうわずっていて、彼自身の意気込みと時の速さがかみ合ってないようで、力だけが先走っていた感じ。必死だなという感じ。『うん。気持ちはもう充分にわかったから、落ちついて』と、何度も思いました」 「声の調子は?」 「かなりリハーサルで酷使したんじゃないかしら。随分かすれて出しにくそうでかわいそうでした。思ったように声が出てない感じで。だけど三十曲ほどぶっ続けで歌っても、最後のアンコールの頃にはしっかり声が出てる。さすがですよね。 『卒業』を歌い始めて、やっと落ちついた感じでした。いつもの彼に戻ったっていうんでしょうか。『いま投げたのはオレの夢だから壊さないように』って。それまでは、嵐のようにぶっとばして歌い切ったって感じ。新しいアルバムからの曲が多かったせいもあるのかしら。みんなは、彼の話しかける言葉を聞き取ろうとして、必死で耳を傾けていましたよ。ドームって、声が反響するみたいですね。MC(歌と歌の合間に入る語り)も、何いってるのかよくわからない。まわりの人たちも、一所懸命『何を僕たちに伝えてくれるんだろう』って、大きな期待を抱きながら身を乗り出していましたよ」 「かなり乗ってた?」 「客席も一緒に歌ってる感じですね。『Scrambling Rock'n'Roll』なども、大声で歌ってました。それで『自由になりたくないかい』から始まる部分で、皆は彼がマイクを客席に差し出してくれるのを待ってたみたいです。でも結局、尾崎一人で歌いきっちゃった。客席と一体になるいつものステージとは、ほど遠い感じですね。余裕が全然なかった。  あと、『核』は、やはり以前の歌い方がよかった。レコードも、私個人としては12インチシングルのほうが好きなんです。『街路樹』に入っている『核』は、浄化されすぎているっていうか、詞に含まれている臨場感があんまり伝わってこない。あの曲は、あんなに綺麗に流しちゃう曲じゃないと思うんです。12インチシングルの『核』はその点、叫びに等しくてよく伝わってくる。アレンジが成功してるのかな。何かこう、ボロボロに引き裂かれた人間の、どうしようもない哀しみと乾きがビンビン伝わってくるんだけど。ドラッグに溺れてた時期のレコーディングだったからかしら」  かすんだ霧の中で佇んでいたような、そんな不思議なステージの様子を思い出しながら私は話した。すると、背広姿のサラリーマンたちが、アンコールの途中、遅れて駆けつけていた光景が頭をよぎった。汗をにじませ、肩でぜいぜい息をしながら、尾崎の姿を見つけて悲しいほどホッとした表情を見せたこと。その後、黒のアタッシェケースを抱えながら目をつぶり、たった二曲半を聴いて帰ったことなどをB氏に話してみる。 「きっとそいつら、オザキを栄養にして大きくなったんだ」 「みたいですね」 「ところで『街路樹』では、どの曲が一番好きなの」 「そうですねぇ。彼の曲は全部、気になるフレーズが散らばっているといえるんですが。曲自体にまとまりがあるかって聞かれると、かなり複雑な心境なんですけど、確かに気持ちは伝わるし、情景も見えてくる。それで、一番重要なのは、言葉の組み合わせがうまいということでしょう。�特に�って言われると、『LIFE』と『街路樹』でしょうか。『これが現実なら 僕は何を奪い奪われるのだろう』という部分と、『別々の答えが 同じに見えただけ』『過ちも正しさも裁かれる』というフレーズが好きです。彼のその�時�を、鋭く物語っていると思うんですよ」 「ドラッグに関しては?」 「何も言ってませんでした。たぶん、観客は『これからの僕を見てて下さい』みたいな受け取り方をしたんじゃないかしら。でもドラッグってたしかに悪いことだと思いますけど、だからといって彼にとって特別の大きな意味合いを持つかっていったらそうでもないと思うんです。もちろん、まわりの人たちは大変だったと思うし、彼自身も苦しんだとは思う。だけどそうはいっても、彼にとっては、中退したことや骨折したこと、ニューヨークや日本でのさまざまな暮らし。そんないろんな『出来事』の一つとして、彼の意識の奥に葬り去られる心の模様だと思うんです。だいたい、彼がドラッグに手を出したのは、制作活動に行きづまったから……なんて、まことしやかに伝えられてるけど、私にはそうは思えません……」 「じゃあ、どうしてだと思うの?」 「彼はいつもまわりを静観するくせがあったように思うんです。たとえばデビューを知った同級生の反応とか、ニューヨークから帰ってきたときのまわりの対応とか、身体を壊して倒れたときのまわりの様子など、彼は驚くほど冷静にながめているんですよ。  そして今回、逮捕されて有罪判決を受けたでしょ。それは彼にとって、すべてを失うかもしれないということですよね。そうなった時、はたして自分のまわりにいる人たちはどんなふうに自分を扱うのか。離れていくのか、それとも愛してくれるのか。それを見たかったんじゃないのかな。  彼は自分が愛されているのかどうか、不安で仕方なかったんじゃないかしら。有名人というだけで近寄ってくる人間は多いでしょ。だから、あきれるほど悪いことをしてみて、そうしてまわりの愛情を確かめてみる。いわば、『愛のリトマス試験紙』ですね。そのために、彼は自分のすべての過去を抹消したかったのだと思いますよ。ロックスターである彼の現在がゼロに戻るためには、彼にとって『罪人』になるしか方法がなかったような気がします。それで自分の全部を、失くしたかったのだと思います。たぶんそれは、自分を殺す行為と同じ感覚なんです。自虐的というのでしょうか。そうまでして、彼は彼なりの真実の『愛』が欲しかったんですね」 「ほぉーっ」  B氏は、大きな声をあげた。 ■ビジネスとしての歌手の悲劇  尾崎豊は、自分の生き方をよく知っているのだと思う。自分自身の生かし方を。そしてそれに、より忠実なだけなのだろう。ただ、本能的な部分で知っているから、そこが彼を「尾崎豊」として存在させている所以なのかもしれない。たとえそれが彼の中で計算しつくされた上で成り立っていたとしても、他人には決してそのようには見えないから、だから「尾崎豊」は、人々の心の中で、それぞれの形として生きているのだと思う。だから彼は今、「尾崎豊」なのだと思う。でないとすれば、もともと彼はこんなに大勢の人の心をつかんでないような気がする。 「皆、何かを支えにして生きてるものだからな。それが、たまたま尾崎の歌だったり、ある作家の小説だったり、街の風景だったりするわけだろ」  静かなB氏の声が流れた。  尾崎の見つめている対象があり、それを尾崎流の言葉で包んでいく。そして同じ方向から見ていた人はその歌を聴いて「いっしょだ」と思い感激する。この人とつながることができると思い、それを心の支えにするかもしれない。別の方向から見ていた人は「へぇ、そんな見方もあるの」そういって、何かを発見するかもしれない。もしかしたら、「どうでもいいや」と思う人もいるかもしれない。 「尾崎にとっての歌作りって、いったいなんだろう?」 「う……ん。彼は驚くほど寂しがりやで甘えん坊でしょ。すべての人や物を愛そうとする。そのくせ、その術《すべ》を知らなかったり、時には間違えたりして傷つく。間違いに、すぐ気づくけれど、不器用すぎてどうやって謝っていいかわからない。そのまま時は過ぎていく。そんな平凡な心の瞬間を色にしたら、歌になってた。そんな感じじゃないかな。  尾崎は、たくさんの人と自分の心をつなぐために作品作りをしているんだと思う。分け与えてあげたいっていう気持ちですね。それが思ったように伝わってないところもある。だから、ビジネスとして尾崎が歌という手段を選んでしまった悲劇が、そのあたりに少し出てる気がします。もしかしたらアマチュアで、ちょっとした街の人気者でいれば倖せだったんじゃないかなと思ったりもします」  いずれにしても尾崎は、ビジネスとして歌手の道を歩んできた。それは本当の彼の気持ちとは、また別の次元の問題である。彼はレコードやビデオを出し、ライブもできる環境にいる一人の芸能人なのである。別に誰かから強制されてやっているわけでもなく、自らが進んでやっているわけだから、ファン以外の人から見れば、彼は充分、音楽界という社会の枠にハマッて生きている人なのだと思う。 「ステージ、見たかったな……」  B氏は、寂しそうにつぶやいた。 「彼がこの先、問題を起こさなければ大丈夫ですよ」 「もう、ドラッグはやらないだろう」 「たぶんドラッグはやらないでしょうね」 「だけど、アイツはトラブル・メーカーだからな。死ぬまでアイツ、何かありそうだな」 「危ない発言ですね」  受話器を置くと、耳たぶが熱を持っていた。  翌日、各新聞は彼の復活ライブを大きく報道した。 「尾崎豊 本格復帰へ熱唱! 熱烈信者を持つ十代の『教祖』の人気は健在だ……」  窓から見える空が、赤い。まだ、ライブの熱気が身体を包んでいるようだ。五万六千人の観衆を釘づけにした尾崎豊の叫びを頭蓋骨に残しながら、私は深い眠りへと落ちていった。 [#改ページ]   第七章 予言された死  一九八九年五月二十七日。ずいぶん久しぶりに尾崎豊の映像を見た。  色あせたフィルムがカラカラと回るだだっ広い会場で、聴衆は息をひそめて画面に見入っていた。すでに過去に追いやられた「彼」との対話をいつくしんでいるようにも見えた。  東京のPITで行われた、この三時間にも及ぶ尾崎豊のフィルムコンサートは、そのだだっ広い敷地の中で、人々の静寂を従えながら激しく流れ続けていた。  新宿ルイードでのデビューライブに始まり、代々木競技場第一体育館のライブまでの模様を克明に保存しているこのフィルム『もっともっと速く!』は、一九八六年七月に、全国約百ヵ所で初上映され、約二十万人を動員している。見逃してくやしい思いをしていた私にとって、その再上映はかねてから心待ちにしていたものだった。そのフィルムコンサートが行われると新聞で知ったとき、忘れかけていた大切な何かが取り戻せる気持ちになった。そうして通じない電話の受話器を二時間も握りしめながら、チケットの予約に土曜日の朝を費やしたのだった。 ■戦慄のフィルムコンサート  尾崎豊は、その時、活動がほとんど停止状態にあるロックミュージシャンだった。  覚醒剤不法所持で逮捕された後、一九八八年九月十二日に行われた東京ドームでの、たった一度の復活ライブ以来、その音楽活動は完全に停止している。大勢の彼のファンにとって、彼の動向に関する情報は皆無に等しい。唯一の情報源である音楽雑誌も、もうほとんど彼の特集を組むことはなくなったからである。 「もうすぐツアーをするらしい」 「いや、アルバムが出るらしい」  だれも、彼の本当の動きを知る者はいなかった。  無責任な憶測だけが飛びかう中、彼を待ち続ける群衆に出会ったのは、太陽が照りつける、五月の正午過ぎだった。  いつ、彼の活動が再開されるのか、その見通しさえつかめぬまま、彼の創り出す音楽の世界に魅かれてしまった人間たちは、毎日落ちつかない日々を過ごしていた。そんな彼の音楽に飢えている多くの人間たちが、そのフィルムコンサートに参集した事実というのは、 「尾崎豊なんて、もう死語だよ。だって若い連中は、もう彼の名前すら知らないよ」  と嘲るように私に話してくれた作曲家のT氏の言葉を、見事に打ち消してくれた。  その会場には、尾崎豊が日本中を席巻していたころ、まだ小学校低学年だったはずの中学生も大勢つめかけていたからだった。中には小学校高学年ではないかと思われる少年少女たちもいた。彼らはあきらかに、最近になって尾崎豊の存在を知った「新たなファン層」であった。  東京都内の区立中学に通う十三歳の少年も、その「新たなファン層」の一人である。少年は、尾崎の生のステージを見たことがない。 「尾崎からオレが学んだことって、何かこう、マジってことかな。マジになったりするのって、とくに学生だったりするとシラケたヤツらがバカにしたりするじゃないですか。正面からぶつかっていく姿は、とことん『ダサイ』ってさ。だけどね、まっすぐに前を見て歩くカッコよさを教えてくれたのが尾崎だったと思うんだ。自分が信じた道を歩いていけば、どんなに他のヤツらが『あいつ、ダサイな』っていってても、オレは平気になれるんだってわかった。  だってね、シンナー吸ったり万引きしたり家出したり恐喝したりがカッコイイって思ってる友達もいるんだけど、本当はそんなヤツらって、すごくみっともなくてカッコワルイんだと思う。それがわかったんだ。だからオレ、醜態さらけだすシンナーとか万引きとかやらない。尾崎が、そんなことしたって何にも解決しないよ、もっとまっすぐ歩いていこうよ、って教えてくれたもの。  尾崎の曲は、アルバムとかで聴くしかないし、活動してないみたいだから、ライブも観ることができない。ビデオ一筋です。でも、いいんです。すごく歌がうまくて、アルバムだけでも尾崎の言いたいその意味がよくわかるし、いつか活動を始めてくれたら、絶対に見に行こうって決めてるんです。それが今、一番楽しみだと思ってるんです」  尾崎豊のすごさは、劇的なシーンだけでなく、ごくありふれた平凡な風景や、退屈すぎる日常にさえオタマジャクシを付けることができる所にある。彼の歌をよく聴くと、彼は決して「若者たちの反抗的精神の代弁者」ではないことがわかる。  どんな世代にでも、そしてどんな時代にでも共通する「心の模様」を歌える人だ。つまり彼は、作詞の天才なんだと私は思っている。「制作活動に行きづまった」というけれど、実際の彼は、ほんの二十分ほどで一つの曲を書くことができる。もちろん大学ノート一冊にぎっしり書かないとでき上がらない詞もあるが、彼にとって作詞そのものは、巷でいわれるほど苦悩に満ちたものではなかったと思う。少なくとも私の知っている尾崎豊は、そうであった。  とにかく、時代がどのように移ろうとしても、新たなファンが新たな尾崎豊を胸に宿しつづけている事実が、そのフィルムコンサートの日に証明された。  そんな中にまじって、親子連れや友人同士で座っている人たちの姿も見えた。そしてやはり、一人ぼっちでポツンと座っている男女が多かったことも事実だった。硬いパイプ椅子に腰かけ、足元ばかりを見ている人間が多くて、その光景をうしろから見ると、みんな肩を震わせて泣いているように見える。去年の東京ドームでの復活ライブと似たような光景に、私は一種の戦慄さえ覚えていた。 ■虚像との約束  その日は久しぶりに快晴の週末だった。  午後五時三十分開演だというのに、三時にはすでに長い列ができていて、いっしょに行った友人と思わず声をあげた。彼女はその一年ほど前に、私が尾崎のテープをあげたことがきっかけで、またたく間にファンになってしまった二十七歳の女性だった。 「たくさんの人ねー。私たち、来るのが遅かったかしら」  急いで列の最後尾へと歩いて行った。するとメガフォンを持った会場整理の青年が近づいてきて、 「並ばなくても大丈夫だよ。当日券もあるんだから」  と、無神経な言葉を吐きだした。私たちは聞こえないふりをして、足早に列へと向かった。増え続ける人波を気にしていると、ふと後ろに並んだ少年三人組の会話が耳に入る。 「すっげー、久しぶりだよなー」 「シングルが出てから、もう一年だぜ」 「去年の六月二十一日だったよな、『太陽の破片』が出たの」 「そのあと、九月一日に『街路樹』だったから、さ」 「東京ドームが九月十二日だったろ」  彼らの意識の中に、正確にインプットされた尾崎豊の足跡がよどみなく流しだされる。 「今ごろ、何してんだろうなー、尾崎」 「まさか、死んだりしてないよなぁ」 「バカッ。おまえ、何言ってんだよ。そんな不吉なこというの、ヤメロヨ!」 「だってさぁ。だって、尾崎ったら全然姿を見せないんだもの。何やってんだよぅ」 「早く会いてーよなー」  パンフレットを大切そうに抱えて、いま買ったばかりの「尾崎豊」と名前の入ったキーホルダーを見つめながら、そんなことを話している。待ち望んでいる人たちが、こんなにも多い。私は、渦巻いた男女の胸の中に住む「尾崎豊」の存在に、限りない熱気を感じた。 「だけどよー、当日券があるなんて、シャクだよな」 「あんなに気合い入れて電話かけ続ける必要、なかったよな」 「けど、寂しいよ」 「ほんと、これだけ活動してないミュージシャンなんて、普通だったら、とっくに忘れ去られているよ。尾崎ったら、いったい何してんだよ」 「やめちゃうのかな」 「何をさ」 「歌を……」 「おまえ、何いってんだよ。そんなはずないだろ。だって尾崎、歌しかないと思うよ。歌やめたら、尾崎にとって人間やめることと同じじゃないか」 「そうだよな。オレたちに夢をあきらめるなっていって、『オレは歌い続ける』って約束したもんな。尾崎って、約束守る男だよな」 「そうだよ、そうだよ。尾崎は、そうだよ」 「尾崎だけは、な」  そういったきり、三人とも黙ってしまった。きっと、それぞれの「尾崎豊」を心に甦らせたのだろう。  私は、彼らが心の支えにしてきただろう各々の「尾崎豊」に思いをはせ、なんだか無性に哀しくなった。なぜなら彼らが心に抱えた尾崎豊は、すでに心に抱えた段階から、彼らの理想とする個々の虚像として存在しているに過ぎないのだから。  その虚像はあくまでも彼ら自身の理想が投影された結果であるから、そんな虚像との約束というのは、つまり自分との約束に他ならないのである。それは何を意味するかというと、約束が破られる可能性が、「尾崎豊」という肉体を通した虚像によって出てくるという事である。  これは、やりきれない。私は彼らが「尾崎豊」を知ったために、内面に一つの孤独を抱えてしまったような気がして不安になった。  目の前では中年らしき女性が、窒息寸前のような表情で列の中に納まっている。その大きな瞳を必要以上に動かし、落ちつかない様子だ。しばらくすると、パンフレットを販売しているテントの中に、娘らしき人影を見つけてにっこりと笑った。まだ幼さの残る娘はテントの中から這い出て、母親の元へと走った。母親は、初めて正常な呼吸を取り戻したようだった。 「どれどれ、見せて」  娘の買ってきたパンフレットをのぞき込みながら、母親は嬉々とした顔をしている。 「この尾崎君、カッコイイね」 「こっちのジャケットもいいよ」 「あら、肩なんか出して、尾崎君って意外とセクシーなのね」 「やーね、お母さん。彼は硬派のロック歌手なんだから。今日は、ちゃんと歌を聴いてね。彼の歌って、すごく上手なんだから」 「わかってる、わかってる」  母娘の間に流れる会話が、耳に優しい。二人とも、瞳がいきいきと輝いていた。  開演から三時間。その間、だれ一人として騒ぐ者はなかった。だれ一人として咳払い一つしなかった。ただ静かに時間は流れ、平たいスクリーンの上で踊る尾崎の魂や、カミソリのような鋭い瞳に圧倒され続けるのみであった。  フィルム終了後、会場は感嘆とため息の飽和にまみれた。あまり口をひらく者はいなかった。人々の無言の中に、衝撃や感動の深さを垣間見た。  駅へ向かう路上では、尾崎の違法な生写真を売る露店に人々が群がり、四角い紙に焼きつけられた、いく種類もの尾崎の笑顔が暗い夜空に舞った。 「さあさあ、これで最後よ。この列の写真、最後よ。もう、なくなるよ、もう、なくなるよ。はい、五枚で千円ね」  白いゴルフシャツを着た中年の男性が声をはり上げている。  その夜、東京では星がほとんど見えなかった。 ■一枚単位で売れるチケットの意味  それにしても、彼ほどメジャーとマイナーの両方の世界で生きてきたミュージシャンも珍しいのではないか。熱狂的な支持者を広範囲に、しかも多く持つ反面、知らない人にはまったくといっていいほど知られていない。音楽の内容もさることながら、その名前すら知らない人が多い。五万六千人の客席を、たったの一時間弱で満杯にしてしまう彼を、である。  これだけ多くの人に熱望され、歓待される存在の彼の名前や歌は、なぜ日本中のすべての人々の脳細胞の中に組み込まれることがなかったのだろうか。  もちろん、彼がテレビに出なかったことやニューヨークにいたことなどで、人々の目に触れにくい状況だったことは確かだ。しかし一般のマスコミが、あまり彼の存在を重要視していなかったのはなぜなのだろうか。いや、充分取り上げられていた話題にもかかわらず、何かの理由で知らない人の目や耳には触れなかったのだろうか。これだけ伝説化され、また早熟のミュージシャンとして脚光を浴びた彼の報道は、なぜ日本中のすべての人に届かなかったのだろうか。  この問題を考えるとき、いつもあることを思い出す。彼が所属していた事務所の社長が覚醒剤事件のあと、私に次のような話をしてくれたのだ。 「尾崎のチケットはね、いつも一枚単位で売れるんだ。これはどういうことか、わかる? 普通のライブなんかは、たとえばサザンオールスターズとか、ハウンド・ドッグとか渡辺美里やその他のロック歌手のライブというのは、皆で誘い合って『行こうぜ』っていって押しかけるから、四枚や五枚単位で売れるのが普通なんだ。皆でライブを楽しむ、というノリでね。でも尾崎のチケットだけは、業界でも珍しいくらい『一枚単位』で売れるんだ。まとめて四枚、五枚と買っていく人が少ない。それなのに五万六千席が一時間もしないのにあっさり売れてしまう。これ、どういうことかわかる? ようするに彼のライブには、一人で来るやつが多い、つまりそれだけ孤独なやつが来るってこと。そして、それだけ孤独なやつが多いってことなんだ。オレ、何かそれを知るたびに辛くなるんだよな。でも、それを受け止めてやんなきゃ、とも思う」  そう言われてみると、彼の曲はあまり皆で楽しんで聴くような内容ではなさそうだ。どちらかといえば、詞の内容をかみしめながら、「そうだよなー」などと言ってうなずきながら、こっそりとこぶしを握って聴く曲のような気がする。あるいは、本当に心がわかりあえそうな大切な友達といっしょに、「尾崎豊的精神世界」なるものを存分に味わいながらしんみり聴く……ような気もする。少なくともサザンオールスターズやハウンド・ドッグのように、皆で楽しく乗りまくって……という類いのものではない。  だからだろうか。尾崎豊が一躍ブームになったころ、一部の若者の間では「尾崎豊する」という言い回しが流行った。暗い性格の人や、落ち込んだり哀しんだりしている人を少しからかう口調で、「尾崎豊してるの」とか「尾崎豊ちっく」とか「尾崎る」などといったりしているのを耳にした。  しかしこれは、彼の詞がもつ特異性であり、かつマスコミがつくりあげた「尾崎豊」に対する虚像でもあるのである。  なぜなら、彼が歌に込めた心の叫びは、万人に共通したあらゆるものに対する疑問や哀しみ、怒りであり、その根底に流れているものは万人が渇望している愛そのものであるからだ。  怒りをだれのせいにもせずに自分自身を励ますようにして、また弱きものを慰めるようにして、すべてを受け止めようとして存在している彼の歌詞に描かれる世界は、何も若者だけに共通する問題ではないのである。  彼の歌う詞はすべての年齢に共通した、そしてだれもが一度は持ったことのある心の模様であって、それを大人の世界から切り離し、若者だけの特権のように扱ったのは、ほかでもない仕掛け人たちでありマスコミであったことは否定できない。  繰り返すが、尾崎豊の存在は、その当初から作り上げられてきたイメージのように、若者たちの教祖でもカリスマでも、また、社会批判のロックという枠でくくられるものでも決してない、ということである。 「いつか、尾崎のコンサートを見にいくツアーというのを、バスでやろうっていうんで、募集したんだ。あっという間におおぜい集まったんだけど、やっぱり一人単位だったんだよ。帰りのバスの中で、普通の高校生だったら、知らない同士でも友達になったりするじゃない。それなのに、彼ら、じーっと黙りこくって窓の外ばかりながめて考え込んでいるんだ。彼らを見てるとさ、こんなにも多くの若い連中が、すごい悩みを抱えて孤独なんだなぁーって、オレ、ほんとに驚いたし、やるせなかったよ」  そう言った社長の目は、「高校生が好き」といってはばからない、ロック界のゴッド・ファーザーといわれるにふさわしい優しい目をしていた。 「じゃあ、尾崎君といっしょに『仕事』するの、辛かったでしょう」  私の問いかけに、 「あいつのことが、わかり過ぎるくらい良くわかるから、そういう意味では『仕事』としてかかわるには辛い部分があったよね」  そういって社長は黙ってしまった。  ほかのことでは饒舌な社長も、こと尾崎豊の内面的な話になると口が重くなる。一つ一つ、言葉を慎重に選んでゆく。  ふと目をやったガラス越しに見える舗道で、裸になった街路樹が風に晒されていた。 ■ドラッグ、女、そして酒  私がその社長と会ったのは、一九八八年一月のことだった。ちょうど尾崎豊の覚醒剤逮捕の報道が流れ、ファンの間に衝撃が走り抜けているころだった。  そのころの社長はプロダクション「マザー・エンタープライズ」(最初に尾崎豊が所属していた事務所)、レコード会社「マザー&チルドレン」を中心とした関連七社、社員二十七人で、その当時三十四億円を売り上げるグループの経営者だった。  その、マザー・エンタープライズ(マザー)を設立したのは一九八一年三月。アーチスト一名、社員四名でスタートしたが、その直後にアーチストが事務所を去る。社員一名、事務員一名で再びスタートし、当時CBSソニーの子会社のプロダクションに所属していたハウンド・ドッグと契約する。  社長が尾崎豊と出会ったのは、一九八二年十月のことだった。CBSソニーのオーディションで『ダンスホール』という曲を歌った尾崎を、迷わず獲得したという。そしてレコーディングされたデビューアルバム『十七歳の地図』。そのサンプルテープを、都内の高校生たちに聴かせた。社長は、尾崎豊の歌を理解する最大の支持者になるのは彼らだと思ったからだという。その成果だろうか。その約一年半後に口コミで伝わった尾崎のデビューライブは、高校生でぎっしりと埋まった。尾崎豊が大阪球場を満員にした時、マスコミのほとんどが彼の名前さえ知らなかったというから、若者たちが、どれほど敏感な情報網を持っているかがうかがわれる。  その後、尾崎は十代の「カリスマ」といわれ、ひたすら走り続けてゆく。現在のロックブームの火付け役になったのが、尾崎豊であることはいうまでもなく、彼を作り上げたのが、このマザーの社長だったのだ。  その、手塩にかけて育てた尾崎豊が覚醒剤で逮捕された。しかし意外にも冷静な社長の頭の中では、裁判を終えて釈放された尾崎を、音楽の世界へ戻すためのシナリオが、すでに完璧に整っていた。 「二月に判決が下るでしょう。その後のことは全部決めてるんです。まずシングルを出して、そしてアルバム。その間に一発、テレビに出す。たった一度のテレビ出演ということで、これもまた彼の伝説の一つに書き加えられるはずです。その後、大きな小屋、たとえば東京ドームのような小屋で復活ライブをやる。たった一度のライブを。それでいい。それでいいんです。僕はここまでのストーリーを、とりあえず書いてますから。その後は……」 「その後は、どうなるんですか」 「わからない。わからないけれど、たった一つわかることがある。それは、彼がウチの事務所を辞めるということですよ」 「えっ。そうなんですか。どうしてですか」 「まあ、彼にもいろいろ思うところがあるんでしょう」 「彼が辞めるということは、だれが決めたんですか。社長さんですか」 「いえ、彼というか、僕というか……どちらともいえない。どちらということもなく、お互いがそんな感情をもっていたってことじゃないかな。どちらがいい出すともなく、お互いがそういう認識に達していたから、辞めるということに関しては、そんなに話し合う必要もなかったというのが正直なところ。これで、いいんだ。とにかく、東京ドームでの復活ライブがすむまでは何とか頑張ってくれないと……」  社長はしばらく遠くを見やった後、何かにあきらめをつけたのか、驚くほど淡々と話しだした。手にはトマトジュースの空カンが握りしめられていた。 「彼のことなんて、信じちゃいけませんよ。そう、この業界なんて皆、幻なんですから。もちろん、僕のいうことも信じちゃいけないんです。あなたは、彼のことも僕のことも、信用してはいけないんですよ」  ずいぶん疲れた様子だった。しかし精神的な余裕は有り余るくらいに見え、社長は平然とした口調で、そう言い放ったのだった。 「ボブ・グリーンって作家はいいですよ。読んだことありますか。ない? じゃあ読んでみてくださいよ。あれ、いいですよ。ほんわかした気分になる。いま、僕が欲しいものは、ああいうものなんです。そう。安らぎ。大切な人がいて、そんなまわりの、ほんの少しの、ささやかな安らぎでいいんですよ」  そんな話を聞きながら、社長の言葉の中で、たった一つ胸に深く刻まれた言葉があった。その場所をあとにするとき、社長が最後に私に言い残した言葉である。その後、その言葉は終始、私の胸の底から離れなかった。そうしてある時、残念なことに、その言葉は現実として完結してしまったのだ。 「尾崎豊。彼は死ぬまで、警察のやっかいになるだろうね。そう。彼が問題を起こすとすれば……今回がドラッグでしょ。次がたぶん、女。あいつは女で身を滅ぼす。そうじゃなかったら酒かな。きっとアイツの最後は酒ですね」  そんな社長の、何を根拠にしているのかわからないけれど、やけに自信満々の言葉を聞きながら、私は、太陽の光に触れることのない灰色の四角い部屋で、一人ひざを抱えて丸くなっているであろう尾崎の姿を想像していた。それは尾崎豊が死亡する、わずか四年前の寒い冬のことだった。  彼は、監獄にいた。 [#改ページ]   第八章 彼が彼であるために  東京ドームで一日だけの復活ライブを行い、その後ぷっつりと活動の途絶えてしまった尾崎豊。彼は、すでに「過去」のアーチストとして、ファン以外の人々の記憶からは抹消されかかっていた。しかしそのとき、彼は大きな人生の転機を迎えていたのである。 「一生根無し草!」といって、いつもおどけていた彼が、ある意味で「根無し草」ではなくなったのである。酔っ払っては、路上で朝を迎えることが日常化していた彼が、心の底で一番欲していたもの。それは、普通の安らいだ生活だったと思う。彼は、絵に描いたような幸せというものを受け入れるのが苦手なくせに、人一倍あこがれてもいた。  その気持ちは、二枚目のアルバム『回帰線』に入っている『坂の下に見えたあの街に』の歌詞の中にも如実に表れている。この歌は、彼が親の手を離れ、「アーチスト尾崎豊」として独り立ちしてゆくときの情景を歌ったものである。  幼いころ自分を眠らせてくれた、今はもう壊れてしまったオルゴールをバッグにしまい、彼は実家から巣立ってゆく。寂しそうに見送りに立ちつくす母親にサヨナラさえ言えなかった彼は、心の中でそっと呟く。あなたの夢に育まれて、その夢を奪っていくわけじゃないんだよ、と。  その当時十九歳だった彼は、すでに一部の人々からカリスマ的人気を博していた。前年の八月のイベントで左足を骨折し、延期になっていたセカンドツアーを十二月三日、秋田からスタートさせた尾崎は、翌八五年二月七日の札幌まで、実に二十一本のライブをこなした。彼が実家を巣立ったのは、そのライブツアー終了間際の二月三日の事だった。しかもライブツアー終了後、彼は一度目のニューヨークへ旅立っている。翌三月二十一日、セカンドアルバム『回帰線』が発売され、オリコンチャートで初登場一位になる。十九歳の冬、彼はアルバム作りやライブツアー、そして雑誌のインタビューやニューヨークでの生活など、多彩な毎日を送っていた。  そんな忙しい日々の中、ある日ストーブをともしながら、彼の父親は、もう十九歳にもなった尾崎の頭をなでながら昔話をする。その意味が、ようやく尾崎にもわかった。働き始めたからこそ、父親の話してくれる昔話の意味が理解できたのかもしれない。  十五歳で「もう学校や家には帰りたくない」と歌い、十七歳で「親の背中にひたむきさを感じて、この頃ふと涙こぼした」と大人の世界を半分理解し、そして十九歳で「親父の話す昔話の意味が、その日俺にもやっとわかった」という理解に成長する。  幼かった尾崎が、排気ガスにすすけた窓から外をながめ、ひとり夢みていたもの。多感な成長期の尾崎が、いくつもの傷を刻み込んだ街の中で必死に探し続けていたもの。それらはどれも、昔話に出てくる、遠い日の父親と同じだったんだ、と気づく。だからこそ、彼は「家から街へ飛び出してゆくのは、新しい夢の中を歩いて行くことだから、もっと上を目指すということだから」と手を振り別れを告げる。そしていずれ、何もかも分け合って行くような自分自身の家族を、同じように築き上げるときが来るだろうと未来に夢を描く。それは彼の偽らざる理想の家族像だった。 「結婚し子供ができた。ささやかな幸せだった。皆子供ができたら子供に向かってこう言うのだろうか。 『自分が嫌だと思うことを他人にしてはいけません』ってさ」 ■待ち続ける誰かのために  東京ドームで復活ライブを行った一九八八年九月。その四ヵ月前の五月十二日に入籍した彼は、翌年の一九八九年七月に、長男をもうけている。その噂が風に乗って流れてくると、また彼を取り巻く周辺が騒がしくなった。 「アイツ、きっと今度のアルバムで、『オレも結婚した、オレにも子供が生まれた』っていう歌、作るよ」 「だけど、尾崎にそんな歌、あまり作ってほしくないよな。それじゃあ、他のアーチストと同じになってしまう」 「尾崎は、ずっとアイツ自身が大きな子供のままでいいんだよ。ずっと『十七歳の地図』を歌っていればいいんだ。大人になんて、なる必要はない。それが、アイツのカッコイイところなんだから」 「そうだよな。アイツだったら、四十歳になって『十七歳の地図』とか『15の夜』を歌っていても、似合いそうだ。アイツらしいよな。笑われても平気な顔してさぁ」  元、尾崎にかかわったことのあるスタッフたちが、東京の片隅で、そんな無責任な話をしながら尾崎を懐かしがっていた。はたして彼らの予想どおり、尾崎は自らの「結婚」や「子供の誕生」を、やはり歌にしたのだった。それが、一九九〇年十一月にリリースされた『誕生』というアルバムだった。  そのアルバムのタイトル『誕生』は、いろんな意味が込められた『誕生』であった。自分の子供が誕生したことによって、また新たに自らの生命を見つめ直した尾崎豊。これは、彼自身の新しい出発をも意味するものであったのだ。  彼は以前、覚醒剤で倒れる前までのツアーには、いつも数珠を持ち歩いていた。ステージにあがる前にも、その数珠を握りしめていた。肌身はなさず持ち歩いているその数珠には、彼の深い心の底がかいま見えるようだった。  彼は幼いころから、よく宗教書を読んでいたという。彼の歌には、そのせいか宗教的なイメージの言葉が多い。「戒律」「贖罪」「誓い」「祈り」「告白」「掟」「償い」……。  彼は宗教書に何を求めていたのだろうか。「一体、自分はどこから来て、どこへたどりつくのだろうか」という、根本的なテーマを持ちつづけている彼の、本当に深いところでの気持ちが、この『誕生』というアルバムの中に託されているような気がする。  彼は『誕生』という曲の中で、「祈りの言葉なんか忘れちまった」と歌っているが、もしかしたら彼の中で捜し求めていた答えというものを、彼はすでにあきらめてしまったのかと思い、私は胸さわぎがした。  彼はその当時、幼い頃から信じていた宗派に疑問を持ちはじめていたのかもしれない。  彼はその後、一九九〇年あたりから、しきりに他の宗教、たとえばキリスト教などにも興味を示しはじめ、そこにある種の救いを求めていたような気がする。彼は友人に連れられ、ある教会をたびたび訪れ、その教えの本質を見ようと真剣だった。好きなタバコや酒も、一時的にではあるが止めてまで、その宗教の戒律を理解しようとしていた。  しかし彼は、そこにも自分が本当に求めている回答がない、と思ってしまうのである。  とにかくその『誕生』というアルバムができるまで、東京ドームのライブから、実に二年以上の月日を彼は費やしている。その間、音楽活動はまったくの停止状態が続いていた。このまま彼は、音楽シーンから消え去り、そうして人々の記憶からも消え去ってしまうのだろうか。そんな懸念をファンのだれもが抱いていたころだった。 「音楽」という手段ではないにしても、彼がずっと興味を抱いていた表現方法の一つである「執筆」という形で、仕事が始まることになる。  それは、ある月刊誌の中で詩や小説を書くことだった。あるときには自らが撮った写真を載せることもあった。出版社は、以前彼が小説『誰かのクラクション』を出したところでもあり、気心も知れていたのだろう。彼は、リラックスして執筆業に励んでいた。  そんな中、彼の音楽の面での創作意欲や、またステージに立って歌いたいという気力が徐々に満ちてきたのだった。 「オレは二十歳のとき、ステージを降りた。そして約束したんだ。またここへ戻ってくると……。きっと待ち続けている人がいる。だれかは知らないけれど、待ち続けているだれかのために、歌わなきゃいけないんだよね。それがオレ自身だよね」  彼はレコード会社を移り、デビュー以来お世話になっていたマザー・エンタープライズも辞めて、心機一転することになった。 「Sレコード会社にようやく戻れた。俺は個人的にSレコード会社が好きなんだ。お蔭でその事務所も辞められたしさ。別の事務所に移った。Sレコード会社の紹介でだ」  彼のいう別の事務所とは、大物ロック歌手のH氏が所属するR事務所だった。そこで尾崎は、新しいアルバム制作に取り組むこととなる。『街路樹』から、実に二年もの月日が過ぎ去っていた。ところが彼は、またしてもその事務所を辞めることになる。 ■鬱の穴 「アーチストっていうのは、とにかくアイデアが豊富な人が多いんです。とくに天才的といわれているアーチストほど、その傾向が強い。尾崎にしても、いろんなアイデアを出してくる。たとえばツアーにしても、自分がどの位置に立てば観客が一番喜ぶか。ツアーをやりましょうといった段階で、そんな先のことまで考えてる。イメージするのが得意なんでしょうね。でも、実際は自分が思ったとおりのイメージで、そのアイデアが生かされるとは限らないでしょ。たとえば時間的な制約があったり、空間的な制約があったりする。それに天才的な人に限って、とても感覚的に、本能的にそういうアイデアを出すから、毎日毎日違うことを言い出す。ひどいときには分刻みでまったく正反対のことを言い出したりという状況になったりするんですよ。本人には悪気はないと思うんですが、まわりの人間は、それにふり回される形になってしまうんです。一方、アーチストのほうはイライラが募るばかり。なぜ、自分のいったとおりにできないんだってね。それで、衝突が起きたりするときもある。悪循環なんです。誤解が生まれたりもしますしね。鋭い感覚の持ち主である尾崎なんかと仕事すると、とても刺激になっていいんだけど、その分、大変なんですよね。彼、とても感覚がシャープだし、それをイメージするのも上手だから。でも、それを現実化するのは他でもない、僕らなんです。それでいろいろとすれ違ったりするんですよ……」  R事務所の人ではないが現場をよく知るスタッフの一人、I氏は、尾崎豊の礼儀正しい好青年の一面と、とんでもないことをいって怒り出したり、ふいにいなくなったりする面を同時に見て腰を抜かした一人である。 「こいつ、本当に一人の人間なんだろうかと思いましたね。見るたび、話すたびに極端にイメージが変わるんですよ。いい面も悪い面も。いやぁー、ほんとにビックリしました」  それでもI氏は、どうしても尾崎豊を見つづけたいと思ったという。 「憎めないっていうのかなぁ。彼のパワーにも驚かされるし。たぶん、彼の屈折した部分と同じような性質が僕自身の中にもあるからなのかな。だから彼の礼儀正しい側面と破滅的な側面のバランスが……危ういというんでしょうか。遠い日の僕を見ているみたいな気分になるんです。  それとやはり、尾崎は天才アーチストだと僕は思うんですよ。尾崎クラスのアーチストだと、自分の言い分が通るのが当たり前という感覚があるんですね。自分が天才だから、これができるんだという考え。これができたから、自分は天才だ、ではないんです。別に尾崎豊に限らず、天才といわれる人は、多かれ少なかれ、そういう面を持っていると思う。一種の強いこだわりと、ひらめきですね。まあ、だからこそ『天才』といわれるゆえんなんでしょうけれど」  尾崎は、どうしても自分のイメージどおりの完璧な体制で、完璧なアルバムを作りたいと願った。スタッフは、できるだけそうなるようにとバックアップしているにもかかわらず、その姿勢が尾崎にうまく伝わらない。尾崎は、自分の仕事を誰かが邪魔しているんじゃないかとスタッフを疑ってくる。決してそんなことはないのに、尾崎は必要以上に邪推してしまう傾向にあった。 「クスリの影響かもしれないけど、このところ猜疑心がひどくなりましたよね。たとえばスタッフ同士が小声で打ち合わせをしているとするでしょう。それを見つけてアレコレと詮索するんです。尾崎のためを思って一所懸命頑張っているのに、尾崎は自分の悪口を言われているとカン違いしたりするんです。幻覚や幻聴って、ひどかったみたいですよ」  覚醒剤の後遺症は、彼を生涯苦しめた。彼は覚醒剤の効用とその後遺症に関してエッセイを書き、『禁猟区』という歌にまでして人々に警告をあたえたりした。しかし、それとはまったく逆流する形で、覚醒剤の後遺症は彼の人格や生活まで、徐々にむしばんでいった。  初めて彼に会う人は、彼を礼儀正しい好青年だと思う。幼いころから武道をたしなみ、厳格な父親に育てられたせいもあるのだろう。身体を鍛えるために毎朝ジョギングをし、新聞配達のアルバイトもした。目上の人には言葉遣いにも気をつける。しかし一旦気を許すと、その態度が一変する場合があるのだ。甘えが出てくるのだろうか。普段は穏やかで優しい尾崎が、ささいなことがきっかけで鬱状態に落ち込む。そうなると自分で這い上がろうとはしない。ただひたすらに自分の心めがけて「鬱の穴」を掘り続けるのだ。そこに幻覚や幻聴も入り込んでくる。 「オレのレコーディングがうまくいかないのは、アイツが邪魔をしているせいだっ」  掘り続ける「鬱の穴」は、だれも埋めることはできない。彼を礼儀正しい青年だと信じていた人たちは「裏切られた」と錯覚し、混乱する。「好青年」と「鬱の穴」。ある人はそれを「まるでジキルとハイドだ」と言った。だからだろうか。他人との衝突が目立った。誤解が誤解を生む。彼は、どんどん孤立していった。 「だけどその事務所ってどこも一緒さ。一年で辞めた。『誕生』っていうアルバムを作っている時も、そのことで何度も制作が中断しそうになった。その時ある人に言われたんだ。『まず走るんだ、走れ!』その言葉はまるで祈れと言われているように聞こえた。 ──ずたずたに引き裂かれた心が路上に転がっている。拾ってみると昔捨てた夢のかけらだった。──」 ■個人事務所の設立  とうとう彼は、自分による自分だけのための事務所を作るしかなくなった。彼は、まわりにいる人々に意見を求め、協力を依頼する。  さいわい、事務所設立を手伝ってくれる人物が何人か見つかり、スタッフたちは資金集めなど、設立にむけて奔走した。  社会的信用というものがあるとするなら、尾崎豊は法律に触れることをした人間であるという過去のため、それを得るのに苦労するはずだ。他人の信用を得るために、彼はいったい何をすればいいのだろう。きっと部屋を借り、家具や事務用品をそろえ、資本金を調達するのは大変なことだったろう。まわりで働くスタッフにとっても、その苦労は同じだったと思われる。  尾崎は、スタッフのうちの一人と初めて会ったとき、「よろしくお願いします」といって深々とお辞儀をしたという。余談だが、尾崎は身体がやわらかいので、お辞儀をするとひざに頭がつく。そのお辞儀の仕方は独特で、ステージ上でもよく披露していた。あの深々とした心のこもったお辞儀に、心打たれるといったファンの声を、私は会場でよく耳にした。  まわりで尾崎をサポートすることになったスタッフたちも、きっとこんな尾崎のお辞儀を何度も見たことだろう。そんなスタッフたちの献身的な努力もあり、尾崎豊だけの事務所「(有)アイソトープ」が、やっと設立した。一九九〇年十二月のことだったという。  これによって尾崎は、自分の思うとおりの仕事ができるはずだった。彼は自らが代表取締役社長という座につき、青年実業家としても本気で意欲を燃やしはじめた。洋服や持ち物にも気をつかうようになり、それまでTシャツとジーパンが多かった彼は、事務所に出勤するときにはバリッとしたスーツを着こなすようになった。汗のふき出る真夏であっても、きっちりとスーツを着ていた。名刺も持ち歩き、出会う人には、あの深々としたお辞儀とともに差し出した。それが、彼の信じる社長というものの姿だったのかもしれない。  事務所が機能しはじめると彼は、のびのびになっていたツアーに向けて活動を開始した。 「本当にツアー、できるのかよ」  尾崎の昔を知る人が、そんな心配をしていた。私も、心配だった。  しかし事務所設立からわずか四ヵ月後の九一年四月に入ると、そのツアーは現実味を帯びてきた。チケットが発売され、情報誌にも、そのツアーの詳細が告知されたからだった。  尾崎豊の活動が、はためには安定してきたように思われた陰には、彼の母親による影響も見逃すことはできない。オーディションを受けることを勧めたのが彼の母親であったことからもわかるように、彼のアーチストとしての才能をいちはやく見つけだしたのは、彼の母親であった。そして、事務所設立と同時にスタッフの一員として、母親は経理を担当することになる。ただ、身体が弱いため、毎日出勤するというわけにはいかなかったようだ。その母親が、出勤の日には、父親の車に乗せられてアイソトープに顔を出した。家族が一丸となって尾崎を励ましている。そんな印象を受けた。  幼いころ、母親は入退院をくりかえし、また働きに出ることによって、彼はガランとした家の中で一人、過ごすことが多かったという。その積み重ねが彼の内部で、くすぶっていたのかもしれない。さまざまな紆余曲折があった。ロック歌手になり忙しくなることによって、家族と触れ合う時間が少なくなったことは否めなかっただろう。事件をおこし、お互いに愛情をもっていながら、うまく相手に伝わらない。  私が打ち合わせでアイソトープへ行ったときに話しかけてきた母親の言葉には、どこかお互いがしっくりいかなかったという無念さが漂っていた。その関係を、事務所でいっしょに働くことによって修復できるのかもしれなかった。  尾崎は、幼いころから一番あこがれていた家族のあたたかみに、ここで初めて触れたのではないか。  しかしそれでも、彼の中にある孤独は形を変えていつも存在し、癒されることはなかった。 「誰かが壁を蹴っているから 上手に眠れない 誰かが壁を叩いているから 深く眠れない 誰かが結んだ透明な壁が 眠りを妨げている 路上にこぼれ落ちている 言葉の幾つかを拾って 風が囁いている 悲しみに耳を澄まそう」 「ただ 僕は思う 僕が不幸になることを 誰かが待っているように 世界は力と権力に支えられたまま 弱者は平和を奪われてゆくだけ 本当にそうなんだから 不幸に耳を塞ぎ 目を隠せ そしたら 少しは マトモだった自分を思い出して 笑っていられる」  そうして彼は、あの活動停止を表明した代々木競技場第一体育館でのライブから、実に六年を経て、あの日誓ったファンとの「再会」の約束を実現するための長い長いツアーに自分の運命をかけようと思った。ファンである「君」を見つめて、その影を抱きしめることによって自らをふるい立たせながら。 「この向こうに君がいる どんな姿でいるのかは分からないが 僕を待っているはずだ この向こうに君がいる どんな都合があるのかは分からないが 僕を待っているはずだ 愚かな者が振り返り 弱さを笑いとばしたが 気にはするまい 何故なら僕は行かねばならないのだ 幼い頃 平和を願い続けた 今では 犯した罪だけが唸り続けている 教えられた善行の全ては過ぎ去った 全ての人々に残されていたものは諦めなのか この向こうにいる君に会いたくて 僕は這いつくばってでもそこに行く たとえもし君がいなくなっていたとしても だって この向こうに君がいる」  何度倒れても、だれにけなされようとも、何度再起不能に陥りそうになっても、彼は必ず立ちあがってきた。しかも、地面にはいつくばって積み重ねた経験は、ひとつたりとも無駄にはしないぞ、という気迫と執念があった。手につかんだものは、何ひとつ、その手のひらからこぼしたりしない、生きる糧にしてゆこうという、その生きることへの執着。それは彼の体内で、恐ろしいまでの赤い塊となって燃え続け、それをあらゆる表現によって燃焼しようと躍起になっているように思えた。  その執着は、あるときには責任感となり、またあるときには正義感や博愛精神となり、そして別のときには覚醒剤、そして事務所設立などとなり、彼の内面から噴出した。そして、それに呼応し、悩み考えることによってさまざまな力や勇気を与えられ、また罪の深さや人間の弱さを教えられ、また彼の人生に巻き込まれた人間が、少なからずいたのだった。 「自意識過剰っていわれることがあるけど、やっぱりそうなのかなぁ……」  いつだったか彼が、ポツリとそういったことがあった。消え入りそうな声。弱々しい笑顔だった。自嘲気味に、疲れたシワを目尻にたくさん寄せて、ふっと笑った。  教祖といわれることを極端に嫌いながら、彼がめざしたものは、「教祖」的な要素に満ち満ちていたように感じる。彼は、それに気がつかなかったし、「教祖」という言葉を自分に当てはめられるのを嫌っていただけであって、彼が考えることの中身は、いつも理想の極みであり、高貴であり、そして崇高でさえあった。だからこそ「教祖」的だと思われてしまうんだ、ということを彼が、ちらりとでも思っていたなら、彼はあんなに悩まなかったかもしれない。  自分の弱さを励ますようにして歌っていた彼は、自分自身の曲によっては、ちっとも救われなかったのだろう。自分自身の人生の恥部をさらけ出す作業は、はたで見ているほど容易なことではないし、あるときには自分自身の中の矛盾にぶちあたり、苦しみもしただろう。  それでも彼は、人から「嘘つき」といわれるのが、一番苦痛な人だったのかもしれない。ファンの前で「必ずステージに戻る」と約束した彼。「オレを信じるなら、ついてこい」と言った彼。だからこそ、彼は最初に選んだ自分の道を、途中で停止し寄り道もしたが、それでも無責任に放棄することなく、やはり自分の手で「歌うこと」を選び続けたのだ。  彼は、何事に対しても「完璧主義者」であろうとする癖が、いくぶんあったように思う。その「完璧」であろうとする精神が、ときに彼の内面、ときに社会のありかたなどが抱える矛盾に直面し、つねに彼を苦しめていたのかもしれない。  一九九一年五月。尾崎は、ずいぶん昔から夢みていた自分の、自分による、自分のためのステージを前に、リハーサルや打ち合わせに余念がなかった。 [#改ページ]   第九章 原子の輝き  彼の精神状態が、不安定になっているようだった。東京ドーム以来のステージは、もう目の前まできていた。もう、逃げ出すわけにはいかない。  彼は極度に怖がっているようだった。  本当は二日間にわたるゲネプロの様子を見せてもらうことになっていた私は、直前の打ち合わせで『クレア』の件のために尾崎の精神状態が悪くなってしまったこともあり、見学を取りやめることになった。しかもそのころ、つまらないゴシップ記事のために追い回されていたことや、ある現場スタッフとの軽いトラブルも彼の精神をいらだたせていた。そのため、報道陣は一切お断りという緊迫したムードが漂っていた。その後、中の様子を知る知り合いのスタッフに、ゲネプロにいたるまでのリハーサル風景や彼の様子について聞いてみた。  彼は、あの狭い狭いスタジオで、本番と同じように転げ回り、踊り狂って歌っていたという。長い間離れていた舞台のカンを取り戻そうと必死だったのだろう。まわりのメンバーのいく人かは、そんな彼のパワーを見て、「これは、すごい」「やっぱりタダ者じゃない」という表情をしたという。「大丈夫かい」。そんな心配もあっただろう。  リハーサルは続く。本番が近づく。  尾崎のまわりは、ピリピリとしたムードがはりつめていた。  歌いたい。しかし、怖い。ステージに戻りたい。しかし、怖い。ファンが待っている、しかし怖い。  尾崎の不安定な気持ちは、自分の内部にどんどん「鬱の穴」を掘り続けているようだった。 ■孤独な洞窟  そんなときの尾崎は、ふと緊張の糸がとぎれたり、わけもなく不安に襲われたりすることが、あったようだ。  彼はソファーのそばにうずくまり、床をこぶしで叩く。スタッフが駆け寄ると、それをふり払うようにして、壁を叩き始めることもあった。彼が自慢にしていた新しいベルサーチのスーツに、細かい血の滴が飛び散っていることもあったという。 「死にたいんだ、もうダメだ、死にたいんだよ……」  尾崎が声を張りあげて泣き出す。スタッフの一人が腕の中に抱きかかえると、尾崎が驚くほど強い力でしがみついてきた。 「大丈夫、大丈夫だよ」  そう繰り返しながら、スタッフは彼の背中をゆっくりとさすったりした。尾崎は首をふり、腕をふり回しながら泣いた。頭を壁にぶつけようとする。 「怖いよぉー、怖いよぉー」  尾崎は子供のように泣いた。手がつけられないほど、泣くこともあったという。  その頃の彼は、板橋区内にある自宅を離れ、事務所アイソトープのある代々木近く、渋谷区内に自分の部屋を借りていた。仕事の能率を考え、彼はそこに一人で寝泊まりをし、事務所に出勤していた。その部屋へ尾崎を連れて帰り、長い手足をばたつかせて、しゃくりあげて泣いているのをなだめすかしてベッドへ運び、布団をそっとかけてやるスタッフもいたという。髪をなでながら、「大丈夫」と繰り返すと、尾崎は瞳を大きく見開き、震えながら涙を流し続けていたようだ。  尾崎の孤独は、いつもこんな風に際限がなかった。一度、その孤独に取りつかれると、いつ終わるともしれない闘いに神経を磨り減らしていく。それはだれにも止めることができなかった。尾崎は、だれの愛によってでも癒されることはなかったし、満たされることもなかった。彼はだれの愛も信じようとはしなかった。いや、信じることができなかったのだ。理由はない。不思議なほど、理由など何もなかった。だからこそ、彼の孤独は癒しようがなかった。それはだれのせいでもなく、彼自身が孤独の洞窟を掘り続ける以外に何の手立てもなかった。そのすさまじい様子に遭遇した人々は、だれもが腰を抜かし、戦慄した。 「覚醒剤の後遺症なんだよ」  彼は、よくそう言っていた。呆れたように笑いながら、そう言っていた。自分でも、どうしようもないらしい。疲れ果てるまで、自分の闇にまみれた洞窟と闘うしかないのだった。  そうかと思えば、驚くほどにこやかで、意欲的なときもある。その精神状態はだれにも予測できず、また、突然に変化するものだった。  ある時には、午後八時に仕事を切りあげて自宅に戻ったスタッフの元に電話が入り、 「ねえ、しゃぶしゃぶが食べたい」  と尾崎から呼び戻されることもあったという。行きつけのしゃぶしゃぶ屋へ行き、カラオケに行く。そうやって尾崎は、自分の精神状態を、何とか平静に保とうとしていたのだろう。 「アリーナで、ファンが待ってるんだよね。ああ……二十分前から、みんな歓声と拍手して待っててくれるかなぁ……大丈夫かなぁ」  ツアーが近づくにつれ、尾崎の不安はつのるばかりだった。 「当たり前だよ。保証するよ、社長。絶対に大丈夫。待ち侘びて、待ち侘びて、割れんばかりの喝采よー」  スタッフのだれかが声をかける。 「そうかなあ、そうかなあ……」  そう言いながら、彼はまた「鬱の穴」に迷い込んでいるようだった。 ■約束の日  ツアー初日の前日。一九九一年五月十九日。  彼は再び事務所で極度の鬱状態に陥った。スタッフたちになだめられ、慰められ、元気づけられて数時間。散々自分の心の迷路を彷徨ったあげく、彼は、やっと背筋を伸ばした。 「僕、頑張りますから。きっと、素晴らしいステージにしてみせますから見ててくださいね。絶対に見ててくださいね」 「六年経った今俺は歌うために生きている。そう感じる。  思い返してみれば全ては誰のせいでもない。そしてそれは誰かに言われる類のものでもない。巧くハメられたのは誰でもない。皆、必死で生きているということ。  六年前にステージを降りたのはこれら全ての理由だ。だが、そしてまた新たにこの哀れな歌が歌われている。  まだ若かった俺はステージを降りる間際にこう言っちまったんだ。俺を信じるならば、ついて来るがいい……。そこに答えがあると……。答えは……、これからだ。  俺は首を吊ったが、自殺未遂に終わった。Mプロダクションを辞める間際のことだ。手首も切ったが、それも未遂に終わった。子供が出来てからのことだった。  苦しみは今でもある。だが乗り越えられることをも俺は知っている。それは生きることだ。生きることは生存競争の中で学ぶこと。そのためには戦わなければならない。そう君はもう知っている。そのためには自分を守る訴えを主張した方がいいことも知っているよね。  正しいものだけが行われているとは限らないのだから。それに多いものだけが正しいわけではない。それはただの幻影に過ぎない。  自分が正しいと思うものに裁かれる。人が考える欲望の全てに祈るなら分かるだろう。全ての人々にとって『生きる』ということだけが望まれていることだということが。  俺もまだ生きている。生きている証に、この言葉を刻もう。誰もが皆生きていることを証示しているのだから。  この六年間君に歌う日を愛し待ち続けた。夜空に向かって、人の欲望が生み出すもの全てに祈った。いつまでも歌いたい、伝えたい覚えた全ての生きる証を……。  これが僕の約束。この祈りが約束の日。  I love you.  この人生に感謝します」 ■五十六本のライブ──全国ツアー  一九九一年五月二十日。  スタッフが尾崎の部屋へ迎えにいった。尾崎は待ち構えていたように出てきた。 「いい五月晴れですねぇー。いいなぁー、いいなぁー。こんな素晴らしい青空のように、きっとやりますよ。見ててくださいよ」  尾崎は何度も繰り返した。そして彼は、ファンとの約束を果たすために彼自身も強い心で待ち続けた六年ぶりのツアーを横浜アリーナから出発させた。楽屋から細い通路を抜け、たくさんのスタッフがステージの袖に立ち見守る。二十分前からの歓声が尾崎の身体を包んでいた。そうして尾崎が、ステージにゆっくりと足を踏み入れた。 「オザキー、ガンバレッ!」  客席から大きな声があがる。初日のためか、彼の身体は固く、歌詞を何度も間違えては「久しぶりだから」と照れ笑いした。観客の様子も、どこかぎこちない。どうやって尾崎のテンポに合わせようかと考えあぐねているようだった。  終演、九時四十五分。たっぷり三時間を歌い切った。尾崎は思った。今日は明日を迎えるための答えを見つける旅なんだと。そして、彼は五十六本のライブにむかって走り出したのだった。  二日目の横浜アリーナで、私は一人の青年を会場に連れていった。彼は、これから売れるだろうと私が予想するロック歌手だった。彼は尾崎のステージを一度も見たことがないばかりか、歌の内容も知らない。しかし、尾崎豊という人物の噂はよく聞いていたようだった。 「尾崎さんって、結構エンターテイナーなんですね。もっとのたうち回って歌ってると思ってたけど、何だか、すごく楽しそうじゃないですか!」  彼の、尾崎に対する印象だった。  六月に入ると舞台は大阪へ移った。大阪厚生年金会館で三日間連続のライブである。横浜アリーナでは空席もあり、ダフ屋がいい席の券を若干持っていたが、大阪では三日間とも完売。逆にダフ屋のほうが、「券売ってくれへんかー、あまってる券があらへんかー」といって近寄ってくる始末だった。道端ではかつてのライブ会場やツアー移動中に盗み撮りされた古い尾崎の生写真が大量に売られ、そこで熱心に写真を見ている女性を見つけた。  女性は四十五歳だった。彼女はデビュー当時からの尾崎のファンだといって、売られている尾崎の写真を愛しそうにながめている。 「今日は主人を残して来たの。やっと、尾崎君のライブが見られる。なあに? 彼の魅力? そうね。母性本能をくすぐるのよ。この子、小さいころから母親の愛情が薄かったんでしょ。歌でそういってる。すごく、かわいそう。だから、私が母親代わりのようなもの。見守ってあげたいのよ」  女性は、座り込んで写真を見ていたが、結局買わないで会場に消えていった。  尾崎豊は大阪一日目のオープニングで、 「久しぶりの大阪です。あいかわらず、この街は危ねーな。きのう、オレは思わずケンカしそーになったぜ」  と切り出した。彼の話はどうやら本当らしく、前日の夜に飲み屋で酔った彼は、たまたま入ってきた見知らぬ人に唾を吐きかけたのだった。睨み合いが続き、まわりの者は心臓が縮みあがる思いをしたという。しかし幸い、ことなきを得た。それで彼は「ケンカしそうになった」といったのだ。  三日目の大阪のステージが終わるとき、彼は「久しぶりのツアーで、久しぶりの大阪で、少し緊張したけれど、でも楽しかったです」と身体を折り曲げるようにして、あのお辞儀をした。ファンは、大歓声をあげた。  七月に入ると、彼のステージは完璧に近い形になっていた。コンディションもすこぶる良いようで、安心して見ていられる日が続いた。圧巻は、七月二日、三日に行われた静岡市民文化会館でのライブだった。  前日の夜、名古屋で気分よくステージを終えた尾崎は、スタッフを伴ってカラオケに出掛けた。尾崎はカラオケが大好きで、熱唱している姿をあちこちで目撃されている。それは他のアーチストの歌もあれば、自分の歌もあった。余談だが、彼の歌は、あまりカラオケに入っていない。そんな時、彼は何とア・カペラで歌ってしまう人でもあった。まわりが喜ぶ様子を見て、それで「よかった」と思うほど、彼は「だれか」を喜ばせるのが大好きだった。その日は、スタッフのうちの一人が『君といつまでも』を歌った。尾崎がギターで伴奏した。 「幸せだなあ。僕は尾崎君といるときが、一番幸せなんだ。死ぬまで君を離さないよ、いいだろ」  スタッフが尾崎を見ながらいうと、尾崎は何度も嬉しそうにうなずいた。その余韻が尾崎に残っていたのだろうか。彼は、翌日の七月二日のステージで、突然ギター一本で『君といつまでも』を歌いだしたのだった。バンドメンバーはもちろん、スタッフも誰もが驚いた。尾崎は気持ちよさそうに『君といつまでも』を歌い、そして「ここまで歌ったんだから、やっぱりこれをやらなきゃね」といって、 「幸せだなあ。僕は君たちといるときが一番幸せなんだ。僕は君たちを死ぬまで離さないよ。いいだろう」  そう客席にむかって、言ってみせたのだ。  彼が、自分のオリジナル以外の曲を、こんなふうに歌ったのは、私の知る限り、これ一度きりである。ファンが、どれだけ感激したのかは、尾崎が「静岡って、いい街だなぁー」と何度も漏らしていたこととイコールなのではないだろうか。  そんな中、東京からわざわざ新幹線で見にきた十五歳の少女がいた。 「高校を二日でやめたの。いじめられて、イヤになっちゃったから。埼玉県に住んでるんだけど、東京のチケットが取れなかったから、ここまで来たの。ほかに好きなアーチスト? いない、そんなの。私の中では、尾崎は特別な存在で、ほかの何かと比べることなんてできない。ずっと、ずっと、尾崎の曲だけを聴いて今まで生きてきたんだから。  尾崎には、すごく感謝してる。勇気づけられた。尾崎だけが信じられる私の友達。だから、今日、尾崎を見ることができて、最高だった。一生、忘れない」  とつとつとした静かな喋り方。色白で髪の毛を赤く染めた彼女の左手には、その昔、尾崎がやったのと同じ「根性焼き」(根性をためすために煙草の火を皮膚に押しつけて我慢比べをする)の火傷跡が五つ、まだ生々しく残っていた。彼女は、ライブが終わると新幹線で埼玉へ帰るという。帰るとすぐ、午後十時から午前五時までの仕事が待っていると寂しそうに笑った。その後ろ姿に「元気でね」と声をかけた。彼女は、ふり返らなかった。  会場を出ると、たくさんの車が停車していた。そのうちの一つをのぞき込む。 「すみません。駅へは、どういけばいいですか」  中から上品な中年女性が顔を出した。 「あなた、尾崎君のライブを見にいらした方ですか」 「ええ、そうです……」 「あら、そう。じゃあ車に乗りなさいよ。どうせ通り道だから、駅までお送りしますわ。ああ、あそこにいるのが私の娘よ」  ふり返ると、髪の長い可愛らしい少女が立っていた。母娘に勧められ、私は車に乗り込んだ。 「尾崎君のファンじゃなかったら、乗せないつもりだったわ」  その母親は、いたずらっぽく笑いながら私の顔を見た。  少女は十九歳。昔から尾崎のファンで、母親も尾崎の才能を認めている。 「私は激しいリズムとか音楽のことはわかりませんが、歌詞がいいわね。とっても。娘といっしょに、歌詞について話し合ったりしますけど、深い味わいがありますね」  母娘は、楽しそうに笑い声をあげた。  翌日の静岡の会場では、ごった返すファンの群れの中、私は六十六歳の男性を見つけた。取材をしようとすると、顔を隠して立ち去ろうとする。私は半ば強引に、その男性に話を聞いた。 「息子がね、尾崎のファンだったんですよ。ええ。デビュー当時から。それで、たまたま私もいっしょになって聴いてたら、ファンになっちまったんですよ」 「尾崎豊の、どういうところがいいと思いますか」 「そうねぇ。歌が上手だし、歌詞がいいねぇ。今日はずいぶん楽しみにしてたんだよ」 「今日は息子さんと、ごいっしょですか」 「いいや。息子は転勤で、今は仙台にいるんですよ。だから今日は一人で来たんですけどね。たぶん、息子も仙台で尾崎のライブを見てるんじゃないですか」  そういって男性は、恥ずかしそうに顔を赤らめた。胸にはオペラグラスを首からかけている。そしてベージュ色の帽子に手をやり、「もう、カンベンしてくださいよ」と逃げるように去っていった。  その日の夜、ライブ会場から宿泊中のホテルにむかって歩いていた私は、大きな交差点で信号待ちをした。暗い夜空を見上げながらぼんやりしていると、何かが私の視界でうごめいた。何だろう。そう思って交差点の向こう側に立っているビルを見た。ビルの二階にあるレストランの窓から、こちらに向かってアベックが何かを振っている。それを見て、私は胸を突かれた。熱く込み上げてくるものが、私の眼球を覆った。  その夜、彼らが私に向かって振り続けていたのは、尾崎豊のシルエットが刷り込まれた白いTシャツだった。  しかし八月に入ると、事務所の中がごたごたしだしたようだった。ツアー前にうち合わせで顔を合わせたスタッフが、病気を理由に退職したりしていて驚いた。  両方に言い分があるのだろう。きっと、どちらのせいでもないのだと私は思う。離別の本当の原因は、当人同士しかわからないことなのだろうが、きっとだれも悪くはないのだと私は思う。  それにしても彼はあいかわらずステージが始まる前にホテルのプールで泳ぎ、アスレチックジムへ熱心に通い体力をつけていた。空手で鍛えた彼の身体は、ますます頑丈になっていくようだった。  八月十一日に京都で行われたライブは、しかし客の反応が悪く、彼は少なからず失望していた。 「京都はいい街だね。いろいろな街を回ってツアーをしているけれど、こうやっているうちに世界はどんどん変わっている。少し前まではチェルノブイリの原発の事故で西側の諸国や農作物に大きな被害が出た。これは今朝のニュースで知ったことだけれど、アメリカが武器の輸出を五倍に増やしたそうだ。これはバンドメンバーのS君から聞いた話だけれども、日本一つでアメリカが五つも買えるそうだ」  彼は、ここで「へぇー」という客の反応を期待した。しかし、その期待は裏切られた。だれも、何も言わない。 「……えっと、何をいっているのか、わからなくなった。う……ん。とにかく僕はクッキーが好きなんだ」  彼はそういって『COOKIE』という曲を歌い始めた。この曲は、環境汚染やそれぞれの国のあり方、日本社会のあり方を的確に表現した名作だが、彼はこれに話をつなげたかったのだ。しかし、客席の中からは、「こじつけるぅ」という女性の声が漏れた。  彼は、自分の曲の真意を理解してもらえていない哀しさを知り、気分が乗らなくなってしまった。その後の曲は、間違いだらけでボロボロだった。彼の歌は歌詞が長く多い。その歌詞が、彼の口からまったく出てこなくなって何度もやり直した。彼は、哀しくてステージを続けられる状態ではなかったのだ。しかし、彼はその哀しさを引きずりながら、ステージをこなし続けた。  事務所のスタッフも、いろいろな事情で入れかわりがあり、彼の身のまわりの世話をする人がいない時期もあった。しかし彼は、夜中におなかがすくと、一人でホテルから抜けだし、近くのコンビニエンスストアへ食べ物を買いに出かけたりした。 「いって下されば、私が買いに出ましたのに……」  スタッフの一人がそういうと、尾崎は首をふって「いいの、いいの」と笑っていた。 「何も、僕にまで気をつかわなくてもいいのに」  そのスタッフは、そういって尾崎のことを心配していた。  終戦記念日。彼は広島で二日間のライブを行った。 「やっぱ、何か平和めいたこと言わなきゃマズイかな」  しきりに彼は考えていたが、結局、戦争や平和に対する目立った発言はないまま、終わってしまった。  ツアーも終わりに近づいた十月二日。大阪城ホールのステージに立った彼は、いつもにも増して、口数が多くなっていた。 「思い出を、よく思い出す。歌いながら、よくその時の行程を思い出しているんだけれど……。『また、嘘ばっかり言って』と、いつも僕に言っていた、その人のために、この歌を捧げます」  そう言って歌い出した『ロザーナ』。 「僕には五つ違いの兄がいて、いろんなことを教えてもらった。中学のときにはドライブに連れていってもらったし、酒の飲み方やタバコの吸い方とか……」 「不良!」とファンから声がかかる。 「そうなんだよ。オレは兄貴のせいで不良になったんだ」  場内は爆笑する。 「オザキ、人のせいにしたらアカン!」と、ファンからまた声がかかる。  尾崎はそれにうなずきながら、また話し出す。 「でも、勉強もよく教えてもらった。兄貴はすごいんだ。中学、高校はずぅーっと全国模擬試験で十番以内だった」  場内がどよめく。 「自慢じゃないけど、オレも中学のとき、一度だけ数学で全国十番以内に入ったことがある!」  大きな歓声と拍手が湧き起こった。  ツアー最終日の十月三十日がやってきた。 「身体を張って戻ってくることを、オレは約束した。だから、身体を張って戻ってきた。罪も、犯してしまったけれど、それはある意味で君たちを裏切ったことになるかもしれない。許して欲しい……。  みんな、僕の歌だけが糧だと思わないで欲しい。できるだけ多くの音楽を聴き、たくさんの本を読み、いろんな映画を見て、いろんな人と出会い、たくさんの糧をたくわえていって欲しい。急ぎ過ぎることはない。君たちが遠回りをしないように、君たちが哀しみに負けないように。僕は、歌い続けてゆくことを、ここに約束します」  そういって両手を広げ、歓声に応える彼の身体の芯から、何か不思議な光が広がっているように見えた。照明の加減だろうか。しかし私には、それがアイソトープ、そう、原子の輝きにも見えたのだった。放射能のような尾崎豊。それは、浴びると身を滅ぼされかねない危険なものなのだ。  彼の、五十六本のツアーが、代々木競技場第一体育館で終了した。 「皆勤賞だね」  尾崎は満足気に、誇らしげに微笑んでみせた。すぐに次のアルバム、そしてツアーへと心が馳せる。彼は、夢見る少年の瞳を取り戻していた。しかし一方、打ち上げパーティに参加した母親は、身体の不調を自分だけの心の片隅に追いやるようにして息子・尾崎豊に精一杯の微笑みを注いでいた。 ■母の死、そして……  一九九一年十二月二十九日。それは彼の二十六歳の誕生日の、ちょうど一ヵ月後のことだった。彼は、最愛の母親を失った。母親は駅のホームで突然に倒れ、昏睡状態のまま亡くなった。心筋梗塞だったという。 「まる三ヵ月の間、ツアーの準備とレコーディングばかりの時間を全て拘束され、一日も休みがなかったんだ。馬鹿げてるかもしれないが。自分に嘘をつきたくはない。母の命に誓って会社を守ろうと決めた。もしかしたら母は自分の死を予感していたかもしれないと思う。母は会社を設立してから一年の間、いろいろな事を手助けしてくれていた。母は忙しさから死んだのかも知れない。この俺の仕事は厳しく、心が荒れる思いだ。時間帯は不規則だしさ。寝ない日が続く中で、どうやって眠る時間を見つけるかがこつかも知れない。ある日母がいきなり俺にこう言った。『私が死んでも、皆の前でおいおいと女々しく泣くんじゃないわよ』。俺はただ呆然としながら頷いた。そしてそれ以上、深くは考えなかった。  一週間後、兄から母の知らせを受けた。実は前日まで母と一緒に事務所で仕事をしていたんだ。デモテープをようやく一曲作り上げたところだった。『誰も知らない僕』という仮のタイトルのついた曲だった。母が言った。『寂しい歌ね……』。俺はどうしようもないんだ……。そんな具合に笑ってみせた。  あの日、去年の年末、仕事納めで見たのが母の最後の姿だった。帰りは父親の車で実家に向かった。母は目を閉じていた。『眠いのかい』。俺は疲れ切って横たわった母にそう尋ねた。『ううん。起きているよ』。母は笑って答えた。『疲れただろ』。俺はもう一度母を見つめてみた。母はうっすらと微笑みを浮かべ、瞳を閉じたまま暗がりの中、涙ぐんでいる様にさえ見えた。お母さん。疲れさせてごめんね。お母さん。世界中の全ての疲れた心が癒される様に、歌い続けていくからね」  よほど思考が乱れているのだろうか。この文面からもわかるように、書かれている母親との事柄の時間的な経過が、何度も行きつ戻りつしている。これはファンクラブの会報に載せられた、彼からの最後のメッセージである。  一九九二年が始まった。  彼は、まわりが不思議がるほどマイルドになったという噂が広がった。周囲に優しく気遣う余裕が、また取り戻せたのかもしれない。だれもがそう思った。しかし、事務所はあいかわらずトラブルが続いた。経理を担当していた母親の死によって、次に経理を任せられる人が見つからない。正式なマネージャーも見つからなかった。ツアーを行うためには、イベンターと交渉もしなければならない。その営業をやる人間もいなかった。  仕方がない。彼は、自分で電話をかけ、自分で自分のツアーの交渉まで行いはじめた。電話を受けたイベンター側は、腰を抜かすほど驚いた。まさか、尾崎豊ほどのアーチストが、自らのツアーの交渉まで行っているとは……。そんなことは前代未聞なのである。わが耳を疑うと同時に、ツアーを本当に行えるのかどうかさえ疑った。その結果、コンサート会場を押さえてもいいものかどうか判断に迷うイベンターが出てきた。  二月上旬、尾崎豊と契約しているSレコード会社は、全国のイベンターを招いて異例の説明会を開いた。その席で、Sレコード会社は宣言したという。 「尾崎豊のコンサートに関しては、一切の責任を持ちます」  その音頭によって、イベンターが一斉に動きだした。全国での尾崎豊のツアーが決定した。アルバム『放熱への証』の歌詞は、その中の二曲をのぞき、ほぼ二週間ほどで書きあげたものである。彼は元来、歌を作るのは早い。ジャケットの撮影も終わり、すべてが終了した。後はツアーを待つのみである。  しかし、この時期を境に、彼に昔から関わってきたブレーンが彼の元を去る予定になっていた。彼のデビュー当時からずっと担当していたレコード会社のディレクターや委託のデザイナー、その他の人々。いろいろな理由があるのだろう。そして、その誰もが傷つき、辛かったのかもしれない。誰のせいでもなく、彼は本当の一人ぼっちになりそうだった。 「ツアーなんて、本当にできるのかよ」  彼の昔のバックバンドのメンバーが、そんな噂を聞きつけて心配していた。彼のずいぶん昔のマネージャーが、そろそろ尾崎を助けにいかなければならない。そう決意して、長年いた会社をひそかに退職していた。尾崎のことを、本当にわかってやれるのは自分しかいない。だから困っている尾崎の元にそっと現れて、「尾崎、頑張ろうよ」と、その昔自分に尾崎がささやいてくれたように、ささやき返してあげよう。そうしたら、どんなに尾崎は喜んでくれるだろうか。大変なことも多いかもしれない。尾崎とやるんだから、背負わなければならないリスクは大きいかもしれない。でも、計算じゃあないんだ。そう思って決意していたのかもしれない。  その、矢先のことだった。  一九九二年四月二十五日未明。彼は、民家の軒先で全裸状態で発見された。  もうだれも、尾崎豊の心配をする必要すらなくなってしまった。 [#改ページ]   第十章 永遠の1/2  昨日とはうって変わったように肌寒い朝だった。空は、重たい雨雲で覆われ、いまにも泣きだしそうな子供の顔のように見えた。あの東京ドームでの復活ライブの朝も、こんな感じの空模様だっただろうか。あの日の天候は夕刻、持ち直したが、今日はそんなわけにはいきそうにない。前日の深夜にポツポツと降りだし、いったん降りやんだ雨空を見あげ、私は憂鬱な気分にかられた。そうして出掛けるころに、とうとう雨は降りだしてしまった。まるで真冬に逆戻りしたかのような冷たい風が、暗い扉のすきまから忍び寄ってくる。腕時計の針は、午前十時五分を指していた。 ■蒼ざめ震えながら立ちつくす人々  黒い喪服姿の女性や、普段着姿の男性グループ、白い花束を抱えたカップルはだれもみな無口にうつむいていた。自分ではわからない何かの力に背中を押されながら歩いているようにも見える。営団地下鉄・有楽町線の護国寺駅へむかう電車の中で、停車のたびにそれらしき人々が続々と乗り込んでくる様子を、私はながめていた。 「ファンクラブの人数が一万五千人といわれていますから、おそらく一万人ぐらいの人が明日の追悼式に集まるのではないかと予想されています」  前日のテレビのワイドショーでは、司会者が大晦日の夜のように興奮した面持ちでそのように話していた。その横では、尾崎豊になんの関心もない「ゲストコメンテーター」が、白けた顔をして座っていた。そんな映像を思い出しながら、この人込みにまみれて歩いていると、自分が、その「予測される一万人」のひとりであるという自覚など、何も意味を持たなくなる。ただ、おびただしい数の人たちが何かに急かされ、思いつめた表情で護国寺を目指している。それだけは確かなことで、ただ、それだけだった。 「こちら側の出口は通れません。あちら側へお回りください。護国寺へ行かれる方は、もう一つ手前の駅で下車し直してください。尾崎豊さんの葬儀の参列者の列の最後尾は、東池袋と江戸川橋のどちらの駅にもあります」  他の喪服姿の人たちと並び、一斉に護国寺の駅で下車すると、駅のホームで駅員がメガフォンを通して叫んでいた。ヒビ割れたような、乾いた大声だった。ホームには身動きできないほどの人間があふれ返っていた。そうして駅員のいう「こちら側」も「あちら側」も、まったく見当がつかないほどの人垣に埋もれて、人々は立ち往生してしまうしかなかった。私は、 「溢れかえる人混みの気忙しさにもまれながら とりとめもないほどに孤独を感じて歩く 駅のホームに立ち尽くしていると 目隠しされたまま仕事抱えてるようだ」  と歌った彼の『COOKIE』という曲を、にわかに思い出していた。喧騒に満ちた駅のホームにいながら、突然孤独感に襲われることがある。それを「目隠しされたまま仕事抱えてるようだ」と言い表した彼の表現力に、大いに感心したものだった。「そうそう、そんな感じ」。これは尾崎豊の歌詞を聴いて持つ感想の、ある一つのパターンである。  何度も繰り返される駅員の指示に従って、一旦下車した人たちは電車に乗り直したり、反対側の出口へと渦を巻いて移動してゆく。文句をいう人は一人もいない。先を急ごうと人波を押しのける人もいない。黙々と下を向いて歩く人、不安気な瞳を泳がせて人波についてゆく人、何か重大なイベントにでも出向くように緊張している人。友人に、または恋人に肩を抱かれて倒れそうになりながら歩く人。それぞれが自分の気持ちを整理しかねているようにも見えた。 「ちょっと、この人たちのせいで、ここの出口は使えないんですかっ!」  どこかのデパートの買い物袋を抱えた中年の女性が、メガフォンを持った駅員の腕をつかんで怒鳴った。野太い声だった。駅員はアナウンスだけで手一杯で、女性に対し答える余裕すらない。外は激しい雨を後押しするかのような冷たい風が吹いているというのに、駅員は汗だくになってメガフォンを握っていた。女性は怒ったまま、強引に出口の方へ歩いてゆき、かきわけた人波の渦に飲まれて見えなくなった。  私は『十七歳の地図』の「人波の中をかきわけ 壁づたいに歩けば すみからすみはいつくばり 強く生きなきゃと思うんだ」という部分を思い出し、目に映っている現在は、彼の歌っている意味とはまったく違う意味から派生した光景なのに、ふと笑ってしまった。きっと彼は、自分の最後がこんな形で騒がれ、かきわけなければたどり着けない人波をまわりに作られようとは、予想だにしていなかっただろう。正午から始まるという追悼式のために、午前八時には前日からの徹夜組二百人を含む五千人がつめかけ、そうして最終的には四万人を超える人波が、たった一人の男のために押し寄せたのだから。 「まったく、予想をはるかに超えちまったからなぁ。まいったよ。オレは、応援でいま来たばっかりなんだから、詳しいことは全然わかんねぇーんだよっ」  駅員は、だれに言うともなくひとりごち、再びメガフォンで声をからし始めた。  機動隊の誘導に従い、地下鉄の改札口を抜けて葬儀会場に辿り着いた私は、一段と雨脚が強くなった空を一瞬、仰いだ。何キロにもわたって蛇のように延びたファンの列が視界をかすめる。アストロビジョンに映し出された尾崎豊の遺影に吸い寄せられるようにして、それぞれの人々がうごめいていた。それは、まるで磁石に吸い寄せられる砂鉄のようだった。私は軽い眩暈《めまい》を感じた。そして、アストロビジョンの中の尾崎が、いまにもギターを持って飛び出してきそうな錯覚に陥った。 「間隔を開けずに、詰めて並んでください。傘は、ささないで」  そんな指示に従い、傘をささずにずぶ濡れになって立ちつくす人たちのくちびるは、何かを決意したように蒼ざめて震えていた。 ■いつかふり返ることもできずに  記帳場所は四つに分けられ、それぞれ「遺族」「友人」「音楽関係者」「マスコミ関係者」と大きな文字で書かれていた。控え室へ曲がる通路の右手正面に、彼の遺影が高々と掲げられ、両脇に愛用のギターを立てかけた棺が置かれている広い部屋が目に入った。入口の扉のまわりには、関係者や友人からの花輪が飾られていた。  芸能人の名前は、少なかった。 「尾崎って、あまりテレビを見ないんだって。芸能人の名前、全然知らないんだ。音楽番組も見ないから、『夜のヒットスタジオ』とか『ザ・ベストテン』も知らないんだよ。出演依頼がきたとき、『何、それ』ってポカンとしてたもの」 「でも、芸能人の友達はいるんでしょ」 「いや、あんまり芸能人は知らないみたいだよ。業界に友達はいるけど、意外に少ないと思う。それより、自分がテレビに出るほうが興味あるんじゃないかな。だってアイツ、自作自演で映画作りたいっていってるくらいだからさ」  尾崎が覚醒剤で逮捕されるより前、バックバンドで尾崎のレコーディングやライブをサポートしたことのあるM氏が、東京ドームでの復活ライブの後、そんな話をしていたことを思い出した。  花輪の名前を見ていると、たぶん尾崎のことを知っているであろう人からのものさえ捜し出すことができない。たとえば、反核ライブでいっしょに出演した歌手仲間たちは、いったいどうしたのだろう。その時の仲間の名前は、たった一人しか見当たらない。四年前の東京ドームでの復活ライブでは、しっかり花束を届けていた歌手仲間たちの名前が、一向に見当たらないのだ。この四年の間に、親交はまったく途絶えてしまったのだろうか。逝去の知らせにさえ、花を手向けることさえできないほどの仲になってしまったのだろうか。  彼の孤独の影を思いめぐらすたび、まっすぐにこちらを向いて眼を見開いている尾崎の遺影が、何だかとても哀れに思えてくるのだった。  パイプ椅子がたくさん並べられた関係者専用の控え室には、彼の遺影を常時映し出しているモニターテレビが前後に二つ置かれ、静かな音楽が流れていた。私は廊下から顔だけを出して、その部屋をのぞいてみた。部屋には後ろのほうに黒いサングラスをかけた男性が数人、座っているだけで、まだ他にはだれも来ていなかった。 「本当に、いや……本当に……あいつ、本当に逝っちゃったんですねぇ……」  肩越しに、ふいに声をかけられ、ふり向くと、昔のスタッフの一人だった。 「まさか、まさかですよ……俺より先に逝くとは……やりきれないですよ。いや、本当にやりきれないですよ……アイツ、よほど淋しかったんだろうなぁ……」  大粒の涙が、そのスタッフのほほを伝って床にポロポロと零れ落ちた。 「中へ入りませんか」  うながすと、その人はよたよたと控え室へ入り、倒れ込むようにしてパイプ椅子にドスンと腰を下ろした。 「無念ですよ、無念……危ないなとは思ってた。だけど、まさか死ぬなんて思ってなかったですよ……たとえ酒を飲み過ぎたとしても、クスリをやってたとしても、廃人になっても、それでも生きてると思ってましたよ。死ぬなんて、死んでしまうなんて……」  両腕で頭を抱え込み、その人は嗚咽をもらした。私は「無念」という言葉を聞き、尾崎豊の「無念」について考えてみた。  彼に対して私が「危ないな」という気持ちを抱いたのは一度や二度ではないが、とくに『風の迷路』という曲を聴いたときは、「何もかも投げ出したい」という気持ちが強く出ているような気がして「危ないな」が、ひときわ顕著になったように思った。それは彼が歩んできた道程に、彼自身がひどく傷つけられているかのようだったからだ。「ひとにぎりの幸せすら 奪われてしまう悲しみは何故」と歌う、彼にとっての「ひとにぎりの幸せ」とはいったい何だったのだろう。「永遠という名のもとに忘れてしまいたいよ こんな胸の傷みは背負いきれるものでもない」と歌う、そんなにも彼を苦しめた「胸の傷み」とは、いったい何だったのだろう。彼はいつも「真実の名のもとに暮らして行くならば どこかにあるのだろうか 人の心の安らぎが」と、やはり人の心の安らぎを必死になって求め続けていた。それなのに、とうとう「いつか振り返る時に 傷跡すらも笑顔で 受け止められるだろうか 悔やむこともないままに」という言葉どおりには生きることができなかった。彼は、笑顔で受け止めるどころか悔やむことすらできず、ふり返ることすらできずに逝ってしまったのだから。それは、さぞかし「無念」の一言に尽きるのではないかと思う。たとえそれが「笑顔」でなくてもいいから、ほんの少し安らかにふり返る時期が欲しかっただろう、と思う。そうして「君は間違ってなんかなかったんだよ」。そう心から言ってくれる人が欲しかったんだと思う。 「三十代、四十代の地図もかいてゆくだろうけど」と、その昔語っていた彼を想うと、人の人生のはかなさをしみじみと感じてしまう。 「彼らしい死に方だった」  そういう人が多かった。彼をよく知るという昔からの友人や、彼をデビュー以前から知っているという音楽評論家、彼の曲を聴いたことがなかった人までも、彼の足跡を、いいかげんな年表にでっちあげて、「彼らしい死に方だった」とコメントしていた。たしかに、彼を表面上だけなぞれば、そういう意見もあっておかしくはない。しかし、彼はあんな死に方を「自分らしい死に方」だと思っているだろうか。彼は安らぎを求め、真実の愛を求めて爆走し続けた。それを、その目で見ることすらできずにあっけなく死んだのだ。それが果たして、「彼らしい死に方」なのか。 ■風になった少年  暗い気持ちで考えていると、葬儀が始まる旨のアナウンスが入った。正午を、少し回っていた。まわりを見渡すと、ぎっしりと関係者がつまった控え室のあちらこちらからすすり泣きが漏れていた。  マイクを通した合図で、一斉に頭を垂れ、沈黙を保つ。  一分間の黙祷がすむと、「故人の思い出深い曲をお聴きいただきたいと思います」と彼のヒット曲、『I LOVE YOU』が静かに流れ出した。この曲は、テレビドラマ『北の国から』で挿入歌としても、またストーリーの中にも盛り込まれて使用されている。一九九一年春にはJRのコマーシャルソングとしても使用され、リバイバルヒットを果たしている。  すすり泣きが漏れる中、初めに葬儀委員長であるソニー・ミュージックエンタテインメントの松尾修吾社長の挨拶があった。松尾氏は「風になった少年」と題し、弔辞を読みあげた。  その内容は要約すると次のようなものであった。 「『風になった少年』。紺色の制服姿の君と初めて会ったときは、まだ幼さの残る、礼儀正しく、無口な少年だった。まだ、高校生だった。うつむきかげんで、はにかんだ様子で、周囲を警戒するような目でわれわれを見ていた。君が『僕は自分の悩みや生活、心の奥にあるものを歌いたい』といって、『そんなこと日本でもできますか』と尋ねたので、『君がやればいい』と答えたら、初めて大きな真っ白い歯を見せてくれました。君は与えられたフィールドを全力で走った。そのフィールドは君にとって狭すぎたのかもしれない。君は無謀と思えるほどの全速力で十年間を駆け抜け、疲れも知らずに飛び続けて、とうとう風になってしまった気がする。(中略)君が遺した六枚のアルバム、音楽的業績は不滅のバイブルになることは必至だろう。君は『人は愛に跪《ひざまず》く』と歌った。今、われわれは跪き、心から冥福を祈るだけである。さようなら」  次に親友でもある俳優の吉岡秀隆さんの挨拶が続く。吉岡さんは途切れがちな、か細い声で、まるで目の前に尾崎がいるかのように語りかけ、つぶやいた。 「尾崎さん……尾崎さんに書く最初の手紙が、まさか弔辞になるなんて、思ってもみませんでした。今、アイソトープの尾崎さんの部屋で、これを書いています。(中略)人は哀しみに出会ったとき、眠れない日々が続くということを知りました。尾崎さんは、どれほど眠れない夜を過ごし、涙を流したことでしょう。尾崎さんは『人が評価されるのは、その人が死んだときなんだろうな』といっていましたね。ころんでもころんでも走り、立ち上がっていく尾崎さんが好きでした。自分の一番生きたい時間を自分らしく生きた尾崎さんを尊敬しています。だれが何といおうと、僕の知っている尾崎さんは、だれからも傷つけられることなく僕の中に生き続けています。尾崎伝説は、まだ始まったばかりです」  吉岡さんの飾らない言葉に、一層すすり泣きが激しくなった。吉岡さんも、言葉をつまらせ、涙をこらえていた。そうして、キーボードの西本さんの挨拶が続く。 「レコーディングが終わり、いつものように『じゃあ』といって別れたのが最後になるとは思ってもみませんでした(後略)」  遺族、友人などの献花がすむと、十分間の休憩が入った。控え室に座りきれない人たちが、廊下にまであふれた。四年前に「尾崎倒れる」の連絡を、新潟から最初にくれたZ氏もいた。Z氏と同じバンドだった昔のメンバーもいる。リーダーのR氏は相当ショックを受けているようで、目を真っ赤に腫らしながら茫然自失の表情だった。 「祈ったよ。『おまえがオレを憎んでいても、愛していなくても、たとえ一方的な愛だとしても、オレはおまえを愛してる。だからもう、何も考えないで静かに、安心して安らかに眠れ』って。そう祈ったら……」  Z氏は、うつむいた。耳たぶが、朱色に染まっていった。 「アイツは、オレたちがどれほどアイツのことを愛してたかなんて、ちっともわかっちゃいなかった。何年かかってでもいい、オレたちが愛していることをアイツに伝えてやりたかったよ。誤解なんだ。オレたちはアイツを裏切ったりなんかしてない。本当なんだ。それを伝えたかった。だけど、もうアイツは死んじまった。もう……。だから、言ってやったんだよ。おまえを愛してるって。天国のアイツにさぁ」 ■誰のせいでもなく  告別式が始まった。彼の曲が流れる中、関係者が次々と献花をしてゆく。『太陽の破片』『ふたつの心』『優しい陽射し』『太陽の瞳』『MARRIAGE』『ダンスホール』などが繰り返し流される。  兄の康さんは、元裁判所書記官らしく、聡明な、はっきりとした口調で最後に謝辞を述べた。 「デビュー前は深夜に宇宙、宗教、学校のことなど、とりとめのないことをよく話した。ことの本質をつきとめようとする面や、内面をまっすぐ凝視しようとするところがあった。(中略)二十六歳という死はあまりにも早かったが、彼はその生涯を全力疾走で駆け抜け、天寿を全うしたと思う。豊の見つめたものは、すべて作品の中にあります。彼の伝えたかったことを、それぞれの胸で解釈してください」  尾崎豊の柩には、彼のすべてのCD、愛用のジーパン、シャツ、サングラスなどが納められ、大好きだったシャンパンがかけられた。  午後二時半。列席者全員の献花が終わると、出棺。霊柩車に柩が納められると、「出棺です」という大きな声とともに鈍い鐘の音が突然、「ガンガンガンガーン」と大きく響きわたった。見守っていた列席者の間から悲鳴のような大きな泣き声があがった。  いよいよ、彼の亡骸は遺骨になるのだな。そう思うと、私はひとしきり雨脚を激しく感じた。彼の、シワを深く刻み込んだ目尻が鮮やかに甦る。あの、自ら必死に笑おうとした末に作られた彼の笑顔が。  ファンの波は四万人を超えた。哀悼の列が蛇のように渦巻く。多くの「尾崎を知らない人」たちは、この大勢の若者たちの追悼に驚愕していた。オロオロする「尾崎を知らない人」たち。彼らは、尾崎豊という一人のアーチストを通して形成されたファンたちの「広く根強い文化」、そうしてその「広く根強い文化」の中で語られる「愛や自由や真実や正義や真心」の意味をまったく知らなかった。もしくは知っていても「無視」して通り過ぎた。もしくは「甘えたやつだ」と決めつけたりもした。そしてこれからも、その「広く根強い文化」の中で語り継がれる「愛や自由や真実や正義や真心」の本質を追求することなく、あれは「ただの社会現象だったんだ」と片付けてしまうことだろう。  しかし、尾崎豊の歌を通して何かを得た者たちは、たとえ彼の肉体がどんな形で滅びようとも、それぞれの胸の中で「尾崎豊」という名前に隠された情熱や勇気を絶やさないことだろう。彼らがいくつになろうとも、その根底に流れる精神は同じだからである。 「誰のせいでもない」  尾崎が最後のツアーで繰り返し、重ねて伝えた言葉である。 「なあ、みんな。夢はあるかい。夢を追い続けてゆくことができるかい。決して、決して自分に負けたりしないかい」 「人生なんて、心の財産をひとつひとつ支払って生きてゆくようなものだと思う。だから、まだ何かやりたいと思っている人、まだ何かやれると思っている人は、心の財産を、うんとたくさん蓄えておくといいよ」  尾崎が語りかけた一つ一つの言葉は、それぞれの胸に強く刻まれていることだろう。  一九九二年四月三十日、午後四時。多くの人々の胸に刻まれ続けたアーチスト・尾崎豊の肉体は、東京都新宿区にある落合斎場でだびに付され、永遠に帰らぬ人となった。  彼が存在した1/2にあたる「精神」のみを遺して。  彼は自分の最期を知っていたのかもしれない。ふと、そう思わせるような文章を、彼は残している。 「夜明けが近づいている。一日の疲れを背負った体はぎこちなく緊張していた。雑然としたとりとめの無い日常を静観し、押し潰されそうになりながら暮らしている。それが俺の知っている限りの俺に違いない。  今夜もまた一睡も出来なさそうだ。朝が来るまでバーボンをあおっていると、やがて小鳥達のさえずりが聞こえ始める。町中で一番早起きなのが小鳥達だ。夜と朝の狭間に生まれる小さくて新鮮な光の雫を飲み込んでいるのだろう」  もし、夢に「かたち」があるとするなら、それはいったい、どんな「かたち」なのだろう。  最後に、いってあげたい。 「尾崎、キミは決して間違ってなんかなかったんだよ」 [#改ページ]   あ と が き  一八九〇年七月二十七日、日曜日の昼下がり。『烏《からす》のいる麦畑』という絵を描き終えたゴッホは、いつものように麦畑の中を「もうだめだ、どうにもならない」と呟きながら彷徨《さまよ》い歩いていた。そうして古城の近くまで辿り着くと、自分の胸をめがけピストルの弾をぶちこむ。傷ついたまま屋根裏部屋へ帰ってきたゴッホは、ベッドに転がりこんだ。  翌々日の二十九日、夜中。彼は、「人間の悲しみは決して終わらない」という言葉を遺し、弟のテオらに看取られながら三十七歳で息を引き取った──。  尾崎豊の遺作となったアルバム『放熱への証』のジャケットを初めて見たとき、私は愕然とした。ゴッホの遺作となった『烏のいる麦畑』と、その風景や色彩が酷似していたからだった。私には、うねりをあげた灰色の空にひらひらと舞う「黒い烏」の代わりに、十字架の上に身体を横たえた「尾崎豊」がいるだけの違いのように思えた。そうして私は、そのアルバムに収められている『闇の告白』を聴いて、再び打ちのめされたのだった。 「疲れの中弾丸をこめ 引きがねを弾く」「いつの日か 自分を撃ち抜く」  絞り出すような声で歌う、その曲を聴きながら、私は思い出した。 「ピカソも好きだけど、ゴッホも好きだなぁ」と言っていた彼の表情を。  それは彼が愛してやまなかった太宰治や川端康成の話をするときの、あのキラキラとした瞳に似ていた。いつだったか、私は尾崎に言ったことがある。 「詩人の中原中也は、少しあなたに似ている。早熟多感、十八歳で上京。繊細な人でね。三十歳という若さで死んじゃったんだけど、死んだ後に評価が高まったのよ」  彼は私が薦めた中原中也の詩集を読んだらしく、その後に会ったとき、「いいですね、あれ」と嬉しそうに話していた。そうして彼は、自分の愛する作家群の中に、中原中也もひょいと加えたのだった。彼がそれらの作家と、その作家たちの「死」を愛したのは、たぶん彼なりの「死」への美学があったからだろうと思う。 「自分の死に対し、だれかが、その意味をつけてくれること」  それは彼なりの最後の執着だったのではないかと私は思う。ただ、母親の死によって、彼の人生観は大きく変わったという。 「最愛の人の『死』に対することで、逆に『生きる』意味を深く考えるようになった」  彼は、そのように周りに話している。いままで「死ぬために生きるような暮らし」と歌ってきた彼が、その大きな人生観の変化によって、どう「生きる」のか。私は、それが見たかった。 「これで最後になるかもしれない」  そんな気持ちで追い続けた昨年のツアー。いつもいつも彼と向き合うときは、こんなふうに「これで最後かも」と思い続けた。それがこんな形によって、本当に「最期」になってしまうとは、何と残念なことなのだろう。  ワープロを、いつも肌身離さず持ち歩いていた彼。ツアー先で故障すれば、買いにいってまでワープロを離さなかった彼。ツアーグッズやアルバムジャケット、ファンクラブの会報にまで、きっちりと目を通していた彼。ファンクラブの会報に載せる原稿を夜遅くまで書き、寝る間も惜しんで写真をセレクトしていた彼。ツアー先のホテルでティファニーの腕時計を買っていた彼。「真実」という言葉の意味を、いつも考え続けていた彼。  どれもこれも「尾崎豊」、彼自身に違いない。  尾崎豊さんの冥福を心からお祈りするとともに、この本に関わって下さった、すべての人々に感謝いたします。  一九九二年五月 [#地付き]柴田 曜子  参考図書一覧 尾崎豊著『誰かのクラクション』(角川書店)一九八五年 尾崎豊著『白紙の散乱』(角川書店)一九九二年 公演パンフレット ファンクラブ会報 中原佑介著『L'Art du Mondo 世界美術全集 12 Gogh』(河出書房)一九六六年 [#改ページ]   文庫版あとがきにかえて ■オザキ・イン・NY  一九九四年五月上旬、私はNYの街の中にいた。  五月とは思えないほど強い太陽の日差しが照りつける中、一週間の滞在予定で取材を終わらせなければならず、途中アクシデントもあったりしたが、とにかく夢中で歩き回った。私にとって、初めてのNYでもあった。  NYという街に対して、それまで私はあまり良いイメージを持っていなかった。もちろん、そこにはたえずセットで語られる殺人や麻薬といった犯罪情報が私の感情を左右していたことは疑いない。ピストルで簡単に殺されるくらいなら、わざわざそんな危ない街になんか、行きたくもない、などと思っていた。そして微かに、「尾崎君を麻薬に沈めた街」として、ある意味、記憶の片隅で憎んでいたのかもしれない。  しかしたまたま、ある仕事での取材のためNYに行かざるを得なくなったのだ。  気の進まないままケネディ空港に降り立った。ところがどうだろう。その瞬間から、今までいだいていたこの街に対する不安感が徐々に払拭されてゆくのを感じたのだ。勝手な思い込みから、偏見に満ちた情報で街の全てを想像していたことを、私は少し後悔しはじめていた。  そしてほんの少し、この街に慣れた頃だった。  その仕事の取材のため、現地のコーディネーターをしてくれていたNY在住の日本人男性Kさんや、日本から同行していた雑誌編集部のAさんたちと食事を取っていたときのことだ。何気ない会話の中で、「尾崎豊」という名前を耳にした。そのとき取りかかっている仕事とは全く関係のない人の名前だったせいか、私は「尾崎豊」という単語を理解するのに少し時間がかかった。そして次の瞬間、弾かれたように食事の手を止め、Kさんの顔を覗き込んだ。 「今、尾崎豊って言いました?」 「え?……ええ」  聞くところによるとKさんは一九八六年、尾崎が断続的にNYに住んでいた頃、何度か顔を合わせたことがあるのだという。それも決まって、不定期に友人の部屋で開かれるドラッグパーティであったという。友人からは、尾崎のことを「日本のロック歌手だよ」と紹介されたという。 「彼はとても大人しくて、印象の薄い人だったよ。いつも部屋の隅の壁際に座り込んで、手足を投げ出してぼんやりとしてた。それくらいしか覚えてないなぁ。ドラッグをやっていたかどうかも定かじゃないし。その部屋にいることは知っていたけれど、たくさん人がいたし、彼が何をしていたかまでは覚えてないなぁ。積極的に誰かと話してるふうでもなかった気がするし。ただ、寂しいからそこに来てぼんやりしてただけかもしれないし。とにかく、印象のない人だったよ。何か、ロック歌手って感じじゃなかったなぁ。普通の兄ちゃんだったよ」  NYという街では、何もかもが激しく流れてゆく。人の入れ代わりも激しい。つい先日行ったお店が、いつの間にかクローズしているなんてことは、ざらにある。そんな街である。尾崎が住んでいた時期から数えて、すでに八年近くが経過していたから尚のこと、当時の尾崎を知る人なんて、現地にいるはずがないと私は思い込んでいた。しかも、全く関係のない仕事で関わっている人たちの中に、まさか尾崎を知っている人がいるなどとは、夢にも思わなかったのである。  驚いた私は、肝心の仕事を一瞬、脇へ押しやり、当時の尾崎につながる情報をKさんから手繰り寄せようとした。しかしKさんは、 「とにかく印象がない。覚えているのは名前と大人しい奴、ってことくらいで。当時一緒にパーティやってた仲間も、今は何処でどうしているのか全く分からないし」と言うばかりで、それ以上の情報は何も得ることができなかった。尾崎が誰の紹介でその部屋に出入りしていたのか、どういう経緯でそのパーティに辿り着いたのか、まったく分からなかった。その後、パーティ仲間の消息が分かれば教えてもらう約束をしていたが、とうとう誰一人、消息をつかめないまま時は過ぎた。  だけど私は落胆してはいなかった。  当時の尾崎を知る人が、ここに一人いる。ということは、他にも必ずいるはずなのだ。そう確信した私は、一週間の取材の後日本に帰り、その仕事を無事に終え、再びNYの地を訪れた。  季節はもう、秋になっていた。ひんやりとした風が頬に心地良く、ビルの間から見える小さく四角い空も白っぽくなっていた。今度は無期限の、自腹を切ってのNYだった。目的は他にも色々とあったが、その中の一つに「NYの尾崎豊」も、もちろん加えた。  なぜだろう。  何のあてもないのに、根拠のない自信だけはあったのだ。当時の尾崎を知る人が他にも必ずいるはずだ、と。なぜか意味もなく、NYの街の至る所に尾崎の匂いをプンプン感じたのだ。  そして滞在三日目。早くも知り合いの知り合いという人が「当時の尾崎を知っている」という情報が入った。取材に応じてくれるという。さっそく会いに行くことにした。  その人は、尾崎より少し年上で、髪の長い、笑顔の優しい落ち着いた感じの女性だった。  その昔、日本で芸能関係の事務所で働いていた彼女は、事情があってその事務所を辞め、NYで暮らしていた。ある日、知り合いのバンドマンから 「今度、尾崎豊ってミュージシャンがNYに行くから世話してやってよ」  と頼まれた彼女は、約束通りに尾崎と会った。そして彼が見たいというライブのチケットを確保してあげたり、一緒に映画を観たりしているうちに、尾崎の住んでいるアパートにも行くようになる。  アッパーウエストにあったそのアパートで、二人は静かな時間を過ごすようになる。お互い、無口なまま雑誌をめくり、近くのデリカテッセンで買ってきたサンドイッチを食べる。そして尾崎は、日本にいる芸能人の友だちと電話でよく話をしていたという。たいてい意味もない無駄話に花をさかせ、笑い転げていたらしい。そんなときの尾崎は、とても上機嫌で、普通の青年だったという。ただ、相手は誰だか分からないが、延々とお金の絡んだ難しい話をしているときがあった。お金を送って欲しい、ということも言っていたそうだ。そんなときの尾崎は気難しく、黙り込むことが多かったという。  また、いまでも不思議に思い出される出来事があるという。普段の彼はジーパンというラフなスタイルだったのに、一度日本へ戻ると言って、その後再びNYに戻ってきたときに会った尾崎は、なぜかバリッとしたスーツに身をかためていたというのだ。あまりの変身ぶりに、どうしちゃったのかと心配になった、と彼女はいう。 「オレ、日本では結構稼いでるんだよ」  おどけた口ぶりで、ちょっとポーズを取りながらそういう尾崎に、 「分かってるよ。ちゃんと分かってる」と彼女は頷いたという。  そして二人は、アパートの近くの通りを散歩し、ベンチに腰かけて二人でぼんやりと空や街路樹を眺めていたという。その、よく一緒に散歩したという通りに案内してもらうため、私たちは外に出た。立派な街路樹たちが、アスファルトにいくつもの影を落としていた。  あ、ここにも尾崎がいる。  私は、彼がNYで作ったという歌の一節を思い出しながら、そんなふうに心の中でつぶやいたりした。  八六年当時、彼女はあるお店で働いていた。彼女の勤務が終わるまで、尾崎はよく日本人が集うクラブで待っていたという。今も、そこは日本人が経営する日本人向けの高級クラブだが、数年前に経営者が替わったためスタッフは全面的に入れ代わっており、当時の尾崎を知る人は現在一人もいない。しかし経営者やスタッフが替わったとはいっても、店内の内装にさほど変化は無いようだ。  尾崎は、当時のクラブでは、奥にある深々としたソファーで飲むのではなく、入口付近にあるカウンターで飲みながら彼女の仕事が終わるのを待っていたという。少し背の高い丸い椅子は、当時のまま残っている。たまに酔い潰れてカウンターに突っ伏して眠ってしまったりしていたらしい。また、帰れなくなった尾崎に「迎えにきて」と電話で呼び出されることも、たびたびあったという。  そんな彼女が、今でも大切にしている、と言って見せてくれたものがある。  それは尾崎からもらったという一着の男性用のジャケットだった。麻の混ざった薄手の綿生地で、濃い紫色のそのジャケットは、首のところに DOMON のタグがついていた。クリーニングに出したときシワになってしまい、色も褪せてしまったことが残念なの、と彼女は少し寂しそうに笑った。  ある日、映画を観た帰り、思いのほか寒くなってしまったにもかかわらず薄着でいた彼女に、自分が着ていたそのジャケットをそっと肩から抱き締めるように尾崎がかけてくれたのだという。地下鉄のホームで、ほんの一瞬の出来事だった。そのさりげない彼の優しさを、今でも忘れないと彼女は言った。  しばらく穏やかで静かな二人の時間が過ぎたが、彼女もまた、尾崎がドラッグから離れられない事を知っていた。そして、いつの間にかお互いの連絡も途絶えた。  その後、尾崎が日本へ帰った事も、再びライブツアーを開始した事も、覚醒剤不法所持の疑いで逮捕された事も、何も知らないまま、彼女はNYで時を重ねた。  そして彼が急逝した。その事を、彼女は少し遅れてNYで知ったという。  私が知り合いから紹介されて彼女に会ったとき、彼女は私の取材を承諾したものの、尾崎の話をする事にかなりためらいを感じているようだった。だから私は無理矢理に彼女から尾崎の事を聞き出したりしたくなかった。彼女が話したくなれば、そのときは彼女から連絡をくれるだろうと思い、いつまでも待つつもりでいた。でも彼女は日を改めることなく、少しずつ、大事に封印していたであろう記憶の扉を恐る恐る開けるようにして、尾崎との出来事を話してくれたのだ。  きっとそれは、彼女にとって少し辛い作業だったに違いない。しかしまた、逆に誰かに聞いてもらいたかった事柄であったとも思う。そう。尾崎を少しでも知っている誰かに。  話をしようと決めてしまった後の彼女は、まるで記憶を誰かと分け合うことによって何らかの呪縛から解き放たれようとするかのように、次々に溢れてくる尾崎との記憶に、ときには追いこされそうになりながら、必死に言葉を紡いでいた。前後左右する記憶との闘いに、ときに黙り込んで頭の中を整理しながら、定かではない日付は定かではないと前置きしながら、じつに誠実に話してくれた。  彼女は、尾崎が日本でどういう活躍をしていたかを、ほとんど知らない。彼が作った歌も、ほとんど知らない。そんな彼女に、山内順仁氏が撮影したNYでの尾崎の写真を見せると、一瞬頬を緩め、「いい写真ですね」と呟いた。  尾崎はきっと、ある一瞬、彼女との共有した時間の中で何かを救われたんだと信じたい。NYにいた間、心癒される瞬間が彼にもあったんだと私は信じたい。彼女の微笑んだ横顔を見つめながら、私は切実にそんな気分になったのだった。  二度目のNYを去る頃、私はすっかりNYという街を大好きになっている自分に気づき、苦笑した。  三度目のNYは、私にも想像できない形でやってきた。  一九九二年七月以来『尾崎豊 夢のかたち』に対し、本当にたくさんの方からお手紙をいただいた。そして幾人かの人とは、その後も手紙のやり取りを行うようになった。その中の幾人かの人とはお会いする機会があり、いつしか色々なお話をする場を持つようになった。  心根の優しい、年齢は四十代以上の御婦人たちである。それぞれ家庭があり、忙しい日々の生活の中で、熱心に、そしてあくまでも優しく尾崎豊を愛している。  そんな彼女たちが、NYへ行ってみたいという。  海外旅行を一度もしたことのない彼女たちが、尾崎豊を感じるためにNYへ行きたいという。私は喜んで案内役を買って出た。それまでの彼女たちとの手紙のやり取りや会話の積み重ねで、お互いの信頼関係は築けていると確信があったし、ちょうど時期的にも日程的にも、そして私の生活環境的にも、旅行が可能な条件であったことが幸いした。  しかし準備は大変だった。NYで撮影された尾崎豊の写真を、主に山内順仁氏と田島照久氏の写真集からカラーコピーし、撮影場所の分かりそうな目印になるものを一枚一枚の写真の中から捜し出し、赤鉛筆で印を付けてゆくのだ。そして同じような場所どうしを分類し、NYの何処を捜せばいいのかを地図と睨めっこしながら考えてゆく。その一方、NYで知り合った日本人男性のコーディネーターN氏に事情を話し、一週間の予定で私たちの我がままな冒険に付き合ってもらえるよう頼んだ。N氏は何の稼ぎにもならない私たちのとんでもない計画に、快く笑顔で応じてくれた。 「こういうのって、結構好きですよ。なんか、わくわくして、楽しいじゃないですか?」  とまで言ってくださったのだ。感謝。  そして彼女たちはと言えば、NYで尾崎三昧できることをそれはそれは喜んだ。興味のない人にとっては、このような目的の旅行など、くだらない事、意味のない事に思えるだろう。でも日々、やはりどこか遠慮しながら家族と調和し暮らしている家庭の主婦でもある彼女たちにとって、この旅行はどんなに素晴らしいことだろうと思う。すべての家事から解放され、誰に遠慮することもなく夜更かしし、翌日の朝食の準備や仕事の心配をする必要もなく、心ゆくまで尾崎の歌を聴き、語り合える場なのだ。  NYのホテルにいる間中、彼女たちは延々と尾崎の曲をかけ続けた。そして、ひたすら尾崎の話に夢中になっていた。年下の私が疲れて先に眠ってしまっていても、彼女たちのパワーは止まるところを知らなかった。そして街中でも、その喜びは延々と続いた。  セントラルパークを歩いては、尾崎の歌を口ずさみ、歌詞と同じ「アスファルトのきらきら」を見つけては、子供のようにはしゃいだ。歌詞と同じように「地下鉄の風に吹き上げられ」てみては、これが尾崎の歌いたかった風景であり、心情なのかと遠い日のNYでの尾崎に心を重ねてみる。彼が行った同じ店「リバー・カフェ」で同じ「ミモザ」を注文して微笑んでみる。そしてまた歩き回り、写真と同じ場所を発見しては涙ぐむ彼女たちを見て、なんと無邪気で愛らしい事かと心から思った。そして彼女たちは、尾崎がカメラに収まった場所と同じ場所で、ちょっと照れながら同じポーズでカメラに収まってみるのだった。  それにしても山内氏と田島氏の撮影ポイントを、思いがけず何カ所か発見することができたのは幸運だった。  とくにブルックリンブリッジの橋のたもとにある倉庫街に関しては、ドアの落書きまで全くそのまま残っていて、見つけたときには皆で大歓声をあげた。驚きだった。 (その後、このあたりの倉庫街は違う場所に生まれ変わるために一掃されることが決まり、今その作業が急ピッチで進められているという。また、NY名物の一つであった地下鉄の落書きは、私たちの行った頃にはすでに消されてしまっており、美しい車両に生まれ変わっていた。尾崎ファンにとっては残念なことだ)  分からない場所もたくさんあったが、それでも彼女たちは大満足してくれた。私も、とても嬉しかった。  尾崎豊というエネルギーによって、彼女たちは、もしかしたら一生行かなかったかもしれないNYという街を体験し、そして喜び、また新たな疑問や哀しみのようなものも背負ったことだろう。それがもしかしたら尾崎のいう「生きることの意味」なのかもしれないと、最近ふと思う。  たとえば昔流行っていた曲をふと耳にすると、そのときの情景や心情に引き戻されて心がざわめく経験は、だれにもあると思う。でも尾崎の曲は、ちょっと違うように私は思う。昔、尾崎のそれぞれの曲に感情移入したときとは、また違う、新たな傷口に新しい形で染み込んでくるような気がするのだ。何度聞いても尾崎の曲には新鮮な感動を覚えるのは、だからなのかもしれない。同じ曲なのに、新しい傷口に、新しい気持ちで語りかけてくる詞。昔感じた傷みは何だったのか、想い出せないほどに鮮烈な新たな傷み。もしかしたら、それはすでに解決され癒された昔の傷みの歴史であり、また新たに刻まれてゆく傷口と対峙するために、また同じ尾崎の曲を手段としているのかもしれない。尾崎を知るたびに、傷つき、喜ぶ。そんなことを繰り返しているのかもしれない。  そういえば尾崎のファンに八十代の女性がいる。彼女は尾崎が亡くなった事をテレビで知り、興味を持った。そして引き付けられるようにして、どんどんのめり込んでいった。  それまで彼女は、CDというものの存在さえ知らなかった。それなのに尾崎豊の歌を聴きたい、ただそれだけの理由で、そのたしかな強い理由でCDデッキを買い、苦手な機械と立ち向かい、操作を覚えた。すると今度はCDだけでは物足りず、ビデオデッキを買う。尾崎豊のビデオテープを見るために。そしてまたもや苦手なマニュアルと挌闘し、四苦八苦しながらも操作方法を覚えてしまう。八十年以上生きてきた彼女の、初めての経験だ。そして忘れていた遠い日の情熱を思い出し、詩を書きはじめる。  彼女も、ひっそりとしたひとり暮らしの空間に、尾崎豊というエネルギーによって、思いがけず自分自身の中に確実に残されていたエネルギーを垣間見る。  なんて素晴らしい事だろう、と思う。  彼女はとてもオシャレに、今を精一杯生きている。尾崎豊という愛すべきロック歌手と出会い、ますます充実した日々を生きているのである。  そうして私は、四度目のNYも尾崎ファンの女性と経験した。彼女も家庭の御婦人で、高校生の息子さんが二人いらっしゃる。海外旅行は初めてだった。彼女も尾崎豊を知り、そして彼を多方面から深く追求しながら日々の生活を送っている。  今度はNY在住二十年で、かなりのベテランコーディネーターのM氏に案内をお願いすることにした。その仕事ぶりや人柄が、とても評判の良いM氏には、すでに一杯の予定が入っていたのだが、そこを何とか無理を言ってあけて頂いたお願いだったので、今回はきちんとガイド料金を正規にお支払いした。そして事前に写真を送り、だいたいどこの場所で撮影されたものなのかのアタリをつけてもらった。しかし「だいたいこの辺でしょう」とアタリをつけた後から苦労が始まる。とにかく歩き回った。倒れそうになりながら歩き、やっと見つけた撮影ポイント。そんな毎日を繰り返し、そして見事に、ほとんどの場所を発見してしまったのだった。NYの隅々まで熟知したベテランだからこその発想で撮影ポイントを推理したM氏は、次々と難問をクリアしてみせてくれた。  Life CAFE の旗はもう取り外されていたが、ちゃんと同じ風景の中に同名のカフェが存在した。自転車とゴミ箱の間に挟まって座り込む尾崎の場所、SUPERIOR MARKETS の前の電信柱の場所、モナリザの壁画の場所、トラックの停まっている47と数字の入った緑色の建物の場所、ZiG-ZAG dans と落書きされた壁の場所、エレベータの場所、106の数字の入った車が走っている街の場所。すべて特定不能と思われたのに、ものの見事に見つけだしてしまったのである。  また、尾崎が八五年に宿泊したというグラマシーパークホテルでは、彼が宿泊した部屋の番号(1427号室)を山内氏が写真で残しておいてくださったおかげで、同じ部屋を見せてもらうことも出来た。ホテルのフロントマンの黒人男性が部屋の案内を待つ間、陽気に話しかけてくる。 「どうしてこの部屋を見たいんだい?」 「大好きだったミュージシャンが泊まった部屋なの」 「へぇー。それは日本人なのかい?」 「そう。日本人。尾崎豊っていうの」 「日本では人気者なのかい?」 「ええ、とっても。でも、もう居ないの」 「居ないって?」 「彼は死んでしまったの」  それまで愉し気だった男性の表情が一瞬にして曇った。そして無言のまま瞳を見開き、しばらく私の顔をじっと見つめていた。それは、とても温かく、とても哀し気な眼差しだった。そして囁くような声で私に聞いた。 「……。彼は、いくつで死んでしまったの?」 「二十六歳」 「それは……、それは若すぎるね。……彼は、その、NYが好きだったのかな?」 「ええ、たぶん。NYには一年近く、住んでいたの。でも最初に来たときに泊まったホテルがここだと聞いて……」 「そうだったの。オレは何もしてやれないけれど、ゆっくり部屋を見ていきなよ。今度来るときは、その同じ部屋に泊まっていくといいよ」 「ありがとう」  黒人男性は静かに柔らかく微笑み、そしてその大きくつぶらな瞳でウィンクし、部屋の鍵を渡してくれた。私は涙がこぼれそうになって、もう一度「ありがとう」と彼に言った。  ホテルの部屋の内装は既に変わってしまっていたが、部屋の窓から見える風景は全く同じだった。感激した私たちは、持っていった写真と同じ様な角度になるように、ちょっと苦心しながらカメラのシャッターを切った。  そしてコニーアイランドにまで足を延ばした私たちは、ボードウォークや雪の上で立っていた尾崎の場所まで見当をつけることに成功したのであった。  M氏は終始、私たちの馬鹿げた計画を馬鹿にすることなく、むしろ 「すごく面白い! 撮影ポイント、できれば全部発見しましょう!」  などと頼もしいことを言ってくれたりした。そしてともすれば、諦めがちになりそうな私たちを励まし、一番頑張ってしぶとく捜してくれたのもM氏だったような気がする。  最後には、 「尾崎ファンの人が来たいって言ったら、いつでも案内してあげるよ」  とまで言ってくれたのだ(ただし彼は先にも述べたように、NYでも屈指のコーディネーターなので、案内料金はちょっぴり高くつく)。  そしてこのときご一緒した御婦人は、さらに若い尾崎ファンの人たちをNYに案内するという力まで身につけられた。素晴らしい事であると思う。  それにしても、田島照久氏と山内順仁氏が、NYでの尾崎豊の表情と街の風景を、そのときの空気まで閉じ込めたかのような素晴らしい作品を残してくださったからこそ、私たちも彼の足跡を辿ることができたのである。貴重な写真を撮影し、作品として残してくださった両氏に、心から感謝する次第である。 ■署名運動の経緯  しかし私たちが、そうやって呑気にNYで尾崎豊の歩いた足跡を辿りながら、喜んだり哀しんだりしている間、日本では相変わらず尾崎豊について色々な出来事がマスコミを賑わしていた。  亡くなったときの報道に混乱があったことと、最後の足取りがどうも不明だったことが、彼の死因に関する大論争へと発展してしまった。そもそもこの問題を大きく取り上げるきっかけとなったのは、夕刊フジに、ある男性ルポライターが「ヒーロー伝説『尾崎豊』──若き血の叫び」というタイトルで連載を始めたからだった。またどこからか流出した「死体検案書」の記載内容にも、いくつもの疑問点が指摘されはじめたのだ。  問題の死体検案書(東京医科歯科大学医学部法医教室作成)によれば、司法解剖は一九九二年四月二十六日に行われ、解剖の主要所見は「多量のメタンフェタミン検出。外傷性クモ膜下出血」とある。直接の死因は「肺水腫」と記され、その原因については「メタンフェタミン中毒」とある。これは覚醒剤の成分が検出されたことを示しているという。また、その他の身体状況については「全身に擦過傷ないし打撲傷」とある。親族が尾崎の死因に疑問を抱いた最大の理由は、この死体検案書の記載だったことは言うまでもない。そしていつのまにか「あれは事故死ではなく他殺だった」という人たちと、「いや、あれは本当は自殺だったんです」という人との間で激しいやり取りが続いた。  そしてついには、「あれは他殺だった可能性があるから、もう一度、きちんと捜査をやり直して欲しい」と願う人々によって署名運動が展開されたのだ。  署名運動が始まる経緯については、その運動の中心を担った「4・25事務局」(尾崎の命日にちなんで名付けられた)の「開設にあたって」という説明文に詳しい。どのような人々が、どのような経緯で運動を起こしていったのか。それを知る一つの手がかりとして、その全文をここで紹介したい。     尾崎豊を愛する皆様へ  皆様も既にご存じのことと思いますが、4月5日より夕刊フジに�尾崎豊 若き血の叫び�が68回にわたって連載されました。  尾崎豊に関しては今までに数十冊に及ぶ書物、週刊誌、テレビ等多くのメディアによっていろいろな角度から語られてきましたが、いずれもどこかに疑問を感じさせるものが多かったように思われます。  三回忌を過ぎた今、このような記事が出たことによって又それぞれに「もういい加減にしてくれ」、「今頃どういうつもりなの?」「また金儲けですか」、「おっ、いよいよ語られる時が来たのか」等々いろいろな思いがあったことと思われます。  私ども、4・25事務局の面々は、筆者に抗議に近い手紙を出した者、ただひたすら尾崎を愛しつづけた者、以前より疑惑を持ちつづけていた者など様々ですが、不思議な縁で集うことになり、親族のご意志に賛同した者の集まりです。  その目的は同封の嘆願書でお分かりになると思いますが、尾崎豊さんの死に関して親族の方々がこのままではいけないと感じ、真相を知りたいと思うようになったことに端を発しています。  今頃になって、と思われる方もいらっしゃるだろうと思いますが、そういった胸のつかえを感じながらも、決心を固めるまではやはり年月が必要だったということもご理解いただけることと思います。あまり時間が過ぎてしまっては風化してしまうし、今がギリギリの時ではないかということで決心されたようです。また説得力のある記事によって再捜査の必要をより強く感じられた、ということもありました。  しかし、一度中断してしまった捜査を再開してもらうには一個人の嘆願書だけではかなうものではありません。それにはどうしたらよいだろうかということで、その方面に相談したところ、嘆願署名がある程度集まって世論の声が大きいということを示してはどうかというお話があり、この運動を起こすことになったのです。これは6月24日発行の夕刊フジ(連載とは別)にも載っている通りです。  私どもは、そのお話を伺い本当に親族の方々がそう思っておられるのか大きな疑問を感じました。しかしお父さまに直接お話を伺って、もしどのような結果が出たとしても真相は明らかにしなければいけないのではないか、「その時はそれで受け止めようと思う」というお言葉を聞いた時、私どもは「そこまで覚悟を決めてお考えなら」と思いました。  そういった経緯でこの活動が始まった訳ですが、これには多くの方々のご協力がどうしても必要です。それに時間も長くはかけられません。できるだけ短い期間のなかで多くの署名を集めたいと思います。  三回忌を過ぎ大きな決心をされたお父さまのご意志に賛同なされた方は、どうぞお力をお貸しください。 [#地付き]事務局スタッフ一同     ワープロで書かれた説明文の後に、父親が手書きで次のように記している。  父われの言うを守りてあ子若く ロックの道を極めて逝きつ [#地付き]健一  そして次に、嘆願書の全文を紹介しておきたい。  警視庁殿     嘆願書  2年前の1992年4月25日、ロックアーティスト尾崎豊が急死しましたが、その死因は当時、深酒による肺水腫と報じられました。しかしその死に様には覚醒剤による幻覚症状とも取れる行動がありながら、事件は解明されることなく今日に至っております。  今回、尾崎の直接死因は当時、肺水腫と報じられましたが、実は事件がらみの死であったことが死体検案書によって明らかになりました。  司法解剖に基づく死体検案書によれば尾崎の死因は覚醒剤による不慮の中毒死であり、そこにはさらに打撲によるクモ膜下出血という直接死因も記載されております。  1992年4月24日から25日未明にかけて尾崎は覚醒剤と打撲による致命傷を受け死亡した。この尾崎の死に様には明らかに第三者が絡んでおり、第三者との事件に巻き込まれたことは明白な事実と思われます。  まさにこれからという時に尾崎豊は予期せぬ最期を遂げました。尾崎家はこの2年間、その不明な死に様に苦しみ続けてきました。その苦しみ悲しみは日々増すばかりであります。それはまた尾崎豊の作品に共鳴し支持してきた多くのファンも同様だと思います。  私たちは警視庁によってこの事件が解明され犯罪者の摘発をされることを切にお願いするものであります。  是非とも尾崎豊の死に絡む事件を再度、ご捜査していただくようここに署名を提出するものです。どうか宜しく取り計らわれますようお願い申し上げます。  この嘆願書の最後には、尾崎の父親の名前が手書きで署名され、そして捺印されている。  この4・25事務局をボランティアで運営する人々を中心に、署名活動は大きな広がりをみせた。しかし尾崎のオフィシャルファンクラブ「エッジオブストリート」は当初からこの活動に不快感をあらわし、ファンクラブ会員に向け常設電話インフォメーションで次のようなメッセージを流し、署名への不参加を呼びかけた。 「悪質ルポライターによる憶測記事に踊らされた署名運動による嘆願書は、静かに眠る尾崎をムチ打つ行為だと考えています。エッジオブストリートでは協力しないようにしています。真のファンなら理解してくれると信じています」  こうしてファンを真っ二つにわける形で始まった署名運動は、一部のテレビ局も大々的にキャンペーンを張ったこともあってか、約十万六千人分もの署名が集まったのだ。  そんな中、今度は署名活動を否定的にとらえていたものの沈黙を守っていた夫人が突如、尾崎が死の当日持っていた遺留品であるセカンドバッグの中に「実は遺書が入っていた」と週刊誌上で語ったのだ。しかし警察発表では遺留品であるセカンドバッグの中には「遺書はなかった」とされている。父や兄も、遺書の存在に真っ向から疑問を投げかけた。その遺書の存在の有無に関してはっきりした結論が出ないまま、九月七日を迎えた。  その日父親と兄は、警視庁公聴課に出向いた。全国のファン十万六千四十一人の署名を提出するためであった。が、警視庁はこの嘆願書を受理しなかった。上村弘明刑事総務課長は「提示は受けたが受理はしていません。本件においては千住署において所要の捜査を尽くし、事件性はないものと判断している」とのコメントを出した。  そもそも嘆願書や署名は、被害届や告訴状などとは違い、法的に効力はない。警察も受け取る義務はないのだという。再捜査してもらうためには、新しい確固たる証拠を示すしかないのだという。  これは、いったい何だったのだろう。  十万六千四十一人の願い。段ボール箱7個、重さ約百キロに詰まった願い。  この拒否された願いは、行き場を失った。  そして九月某日。事務局を手伝った人たちやその知り合いを招き、尾崎の父親と兄の二人が主催する説明会が開かれた。父親からのお礼の言葉とともに、兄からは署名不受理について、そのときの様子がホワイトボードに図を書きながら語られたという。その席で兄は、署名は不受理にはなったものの、「この問題がスポーツ新聞だけではなく、一般紙にも取り上げられたという点で社会問題になったということに意義があったと思う」という意味のことを述べられたそうだ。参加した人のなかには、素直に納得する人もいれば、「これでもう終わり、というのではなく、疑問があるなら真相を、ずっと究明し続けていって欲しい」という願いを口に出せずにいる人もいた。そして、一九九四年の夏を騒がせた尾崎豊の死因に関する再捜査を願う嘆願署名運動は、多くのファンに様々な想いを残したまま静かに幕をおろした。  ただ、この署名活動の最中、先に述べたルポライターの記事及びキャンペーンを張ったテレビ局に対し、尾崎夫人が「名誉毀損」だとして裁判を起こした。この裁判は九四年十一月に始まり、実際に証人尋問が行われたのは九七年二月からだという。テレビ局側は比較的早い段階で和解が成立した。しかし和解勧告に応じなかったルポライター側は、長い裁判の末、二〇〇〇年の二月に結審、判決が出た。ルポライター側の全面敗訴であった。この判決を不服とし、ルポライター側は二月二十八日、控訴し四人の弁護団で闘う決意をしたという。こちらの闘いは、まだまだ終わる見通しはなさそうだ。  いったい、誰が本当の事をいっているのか、誰が本当の事を知っているのか分からなくなる。でも、もうそんなことは、どうでもいいような気にさえなってくる。真実を解明したところで、もう尾崎豊は帰ってこない。あの日の、彼が亡くなる前後の出来事は、きっと彼しか知り得ない事実なんだろうと思う。だから、本当なら彼の口から真実が語られるべきなのだ。なのに、彼はもう語るべき口を持たない。ならば、もうそっとしておいてあげたいという気持ちになる。彼を知るため、彼の生きた証を知るため、彼の残した作品と向き合う。それだけで充分なのだ。今は、そう思う。  しかしその後も、目を覆いたくなるような出来事が続く。尾崎豊の、死亡直後の全身傷だらけの写真が写真週刊誌に掲載されたり、はては彼の運転免許証がコピーされてインターネットで売られたり、拘置所内で書いたとされる日記帳までもがネットを通じて売買されたりしている。  思い出される過去の、彼を取り巻く話題には、平和的要素が一つもない。なぜなのだろう。とても哀しい。  彼を愛した人はとても多いはずなのに、その姿はあまり見えてこない。いつも彼の話題には何らかの、もしくは誰かの悪意がうっすらと感じられるような気がするのは、何も私だけではないはずだ。  それでも少しは、平和への祈りを込めた意義のある話題もあった。一九九五年十一月のことだ。「アトミックカフェ」が八年ぶりに復活し、そこで第一回に参加した尾崎豊の映像が初公開されたのだ。尾崎は八四年、当時日比谷野外音楽堂で行われた「アトミックカフェ」の第一回イベントに参加し、照明用のイントレから飛び下りて左足を骨折したことは本文でも述べた。あのイベントはその後、様々な分野の歌手の他、野坂昭如氏や筑紫哲也氏ら文化人も加わり八七年まで続けられ、延べ一万人以上が参加する大きな動きとなった。が、米スリーマイル島や旧ソ連のチェルノブイリなどで原発事故が続発したため、運動の焦点が「反核実験」から「反原発」へと移り変わり、大規模なコンサートは一時中断を余儀無くされていた。ところが九五年のこの年、各国での核実験が先を競うようにして頻繁に行われ、大問題になっていた。そんな中での八年ぶりの「アトミックカフェ」復活だった。フランスでの核実験に抗議するばかりではなく、特に隣国の中国の核実験にも抗議の意思を伝える意味も大きかった。それは両国への「核実験即刻中止」を訴える署名活動とともに、直接、中国の新聞に意見広告を出す手段がないため、大陸への影響力が少しでもあるようにと香港の有力紙を選び、コンサートの収益で意見広告を掲載する予定で、十一月二十四日、調布市文化会館「たづくり」で行われた。  そこで初公開された「まさに飛び下りる瞬間」と、その後骨折した足を抱えながら顔を歪めて熱唱する尾崎豊の生々しい映像は、見るものに哀しいまでの感動を与えたに違いない。そして十一年ぶりに甦った彼の映像を迎えたのが、平和への祈りを込めたイベントであったことに、とても安堵感を覚えたであろう。平和を願い続けた尾崎を支持してきたファンであったからこそ、それはとても慰められる意義深いイベントであったに違いない。  そういえば、ある放送局で、生前の尾崎の番組を担当したことのある方とお話ししたときの事を思い出す。私が、まだ仕事で初めてNYに訪れることになるとは思っていなかった時期の事である。そのとき、その方は、私にこう話された。 「NYに行ったことないの? ダメだよ、それは。NYに行って尾崎の見た街に触れてみないと。そしてそこで尾崎が何を見て、どう考えて、どんな空気吸ってたのか。それを感じてみないことにはさ、ある意味、尾崎を知った事にはならないよ。NYにいた尾崎を訪ねたとき、彼は最高の笑顔で僕を迎えてくれたけれど、一度、本当にNYに行ってみたらいいよ。違う何かが見えてくるはずだから。新しい発見があるはずだよ」  そのときは、そんなものかなぁ、そうかなぁ、そうかもしれないなぁ、とは思ったものの、だからと言って闇雲に「それじゃあ、行こう」というほど簡単なものではなかった。しかし人には、「時期」というものがあらかじめ人生の中に設定されているのかもしれない。その話を聞いた約半年後には、私の意思には関係なく、「仕事」としてNYの街中を歩き回っていたのだから。そして、その方の話された、その意味するところが、NYに行ってみて本当に分かったような気がしたのである。  尾崎豊を知る手がかりはたくさんあるに違いない。たくさんのキーワードがあり、そして経験するための選択肢がある。その中から、もしかしたらNYという手がかりによって尾崎を体験してみるというのも、案外実りの多い一つの方法なのかもしれない。そして、これから新しく尾崎豊の残した足跡に触れようとする人々が、いろんな人々が見てきた尾崎豊を知り、自分なりの尾崎豊を見つけて欲しいと願う。  ところで文庫化のお話を頂いたとき、ひさしぶりに私はこの本のページを開いた。そして作業を進めていくうちに、色々なことに気づいた。  まず、私の記憶違いや資料のミスなどによって、情報内容が明らかに間違っている点が数カ所あったことである。慎んでお詫び申し上げるとともに、訂正させていただいた。訂正するにあたり、自分の記憶をもう一度正確に辿る作業と、尾崎豊本人の著書や歌詞カードを改めて読み直す作業以外に、『尾崎豊スーパー・クロニクル』(双葉社)を参考にさせていただいたことを付け加えたい。この本は尾崎豊のデビューから以後、彼に深く関わってきた蔭山敬吾氏(ソニー・ミュージック在籍時、尾崎の宣伝を担当)が主宰するグループが作成、須藤晃氏(ソニー・ミュージック在籍時、尾崎の担当ディレクター)が監修されていることもあり、信頼性が高く、尾崎豊を知る上でも非常に価値のある本であると思う。  また、この『夢のかたち』を書いたのが、尾崎が亡くなって間もない時期だったことと、伝えたい事柄が後から後から溢れてくる気持ちに筆がついてゆかなかったせいで、説明が不充分だったり、また反対に過剰すぎてまわりくどく、かえって分かりづらくなっている箇所が多々あり、読み返してみてとても反省させられた。その部分については加筆訂正させていただいた。  今回、これらの作業を含め、文春文庫の編集者内山夏帆さんには大変お世話になりました。的確な御指摘とアドバイスをいただき、心よりお礼申し上げます。  また『夢のかたち』に対し、尾崎ファンの方々からたくさんのお便りを頂いたが、その大半については九三年四月に立風書房より上梓した『尾崎豊 永遠の夢』に詳しく紹介させていただいた(現在この本は出版元にも在庫はありません)。ただ、ファンの方々のお便りの中に、「お墓の場所を教えて下さい」という内容が大変多く、ここで改めてこの件に関してだけ記載しておきたいと思う。  狭山湖畔霊園   住所 埼玉県所沢市上山口2050   場所 狭山湖畔霊園第10区墓地   交通 西武池袋線「西所沢」駅で、西武狭山線に乗り換え、「西武球場前」下車。徒歩15分。かなり急な坂道をあがる。  地方から来られる方は、東京駅からJR山手線に乗り、池袋駅で一旦下車し、西武池袋線に乗り換える。飛行機で来られる方は羽田からモノレールに乗り、浜松町駅で山手線に乗り換え池袋駅まで。  初めての東京は、とても心細いかもしれないが、「どうしても尾崎のお墓にお参りしたい」と願うなら、どうか勇気をもって行ってみて欲しい。闇雲に出てくるのではなく、ちゃんと計画性をもち、事前に地図を用意して安全に行動されることを願っている。  ただ、一つここでお願いがある。毎年、尾崎の命日に霊園の方からお伺いするのだが、尾崎豊のお墓を訪ねるファンの中には、どうもマナーの良くない人がいるらしい。ギターを弾く。墓の周りでたむろし、通路を塞ぐ。ゴミを捨てていく。ほんの一部分の人の行動なのだと思われるし、本人たちには悪気はないのだろう。でも考えてみてほしい。この霊園には、尾崎だけが眠っているわけではない。他にもたくさんの人たちが様々な人生を終えて永眠しているのだ。心安らかに、静かに眠りたい人だっているだろう。そして、その人たちに会いに来る人たちだっているのだ。道を塞いでいては、その先にゆけず、困る人たちだって出てくる。  どうか、自分達の都合以外の事にも目を向ける優しさを持っていて欲しい。そして、気づかない人たちに、そっと気づかせてあげる賢明さも持ち合わせていて欲しい。そして気づかせてくれた人の気持ちを素直に受け入れ、感謝する心を持っていて欲しい。尾崎ファン同士なら、それができると私は信じている。今度お墓へ行ったとき、霊園の職員さんが「尾崎ファンの人たちのマナー、とっても良くなりましたよ」と言って笑ってくださることを期待しつつ。  考えてみれば、長かったのか短かったのか分からない時間の流れがあった。そしてふと、ときどき思い出す。各地で出会った、たくさんの尾崎ファンの人たちのことを。その、尾崎を想う真剣で優しい瞳を。彼らは今頃、どこで何をしているのだろう。心から笑っているだろうか。尾崎の想い出を胸に、まっすぐ歩いているだろうか。自分自身の弱さに負けたりしていないだろうか。夢をあきらめたりしていないだろうか。かつて、尾崎が身を持って示した色々なことを忘れたりしていないだろうか。ときどき挫けたりしながらも、何度でも立ち上がり、胸を張って、生きていてくれるだろうか。  どうか、願わずにはいられない。  この本に登場してくれた全ての人たち、関わってくださった全ての人たち、そして今この本を読み終えようとしている大切な貴方たちが、心から笑える瞬間を持っていることを。  二〇〇〇年十月 [#地付き]柴田 曜子  単行本 一九九二年七月 文春ネスコ刊 〈底 本〉文春文庫PLUS 平成十三年一月十日刊